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石原吉郎―――単独者/絶望/弁証法

 

 

 石原吉郎キルケゴール。この二人について、むしろ、その「近さ」ゆえに語られることが少なかった、あるいはほとんどなかったように思える。どちらも、キリスト教を思想の根幹に据えて、全体の中の「個」を擁護する思想―――普遍的なものに上昇してゆく運動を試みるヘーゲルと対決するキルケゴールの姿には、強制収容所というシステムにおいて「個」を押し殺すことで、全体に奉仕させようとするメカニズムを「告発」した石原吉郎の姿が重なって見えるだろう。むしろ、石原吉郎の後期の「貧しさ」は、キルケゴールの思想から逆照射することでその輪郭を明瞭と出来るのではないか、この論考はそれを目的とする。

 しかし、石原吉郎と言えばキルケゴールよりもむしろ、カール・バルト、特に彼の『ロマ書』の影響関係を見る方が一般的かもしれない。カール・バルト自体がキルケゴールの影響下にあるのはもちろんだが、カール・バルトへの言及よりキルケゴールへの言及の方が実際のところ多い。石原吉郎におけるキルケゴールへの言及は、正確に言えば「一九五六年から一九五八年までのノート」「一九五九年から一九六二年までのノート」佐古純一郎との対談「キリストはだれのために十字架にかかったのか」あるいは「一九六八年六月十二日 坂本明子宛の手紙」である。特に、「一九五六年から一九五八年までのノート」の1956年の(8・22)(8・23)(8・24)その中でも(8・24)の「(…)“Krankheit zum Tode”(死に至る病)だけは手放すまい。私が生きるに値する生き方をしたか否かは、この一冊の理解にかかっている」とまで言い切っている。あるいは、坂本明子の手紙においては「私たちのどこかにダイナミックな突破口が開かれる可能性」をキルケゴールの中に求めていたのがうかがえる。ここでは、石原吉郎が「三種類ほどの翻訳」を読んだ『死に至る病』に焦点を絞ってみよう。

 キルケゴールは「自己」を「自己とは自己自身にかかはる一つの関係である。いひかへればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかはるといふことがふくまれてゐる。したがつてそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかはることである」[1]と定義する。この晦渋な言い回しによって言いたいことは、つまり、「『自己』というのは自分で自分のことを反省しているかのような『内面行為』に見えながら、実際には常に他者=第三者と関係するような外的な関係によって満ちて」[2]いるということである。そして、この「関係」の中に生きなければ生けない我々には絶えず「絶望」の影が付きまとうことになる。なぜなら、絶望とは、「『一者が多者として存在する』という事態」[3]であるからである。それは「関係がそれ自身にかかはる」という「他者=第三者」の視線(「大文字の他者」?)に絶えず晒されているがゆえに「『他者』に措定されて『自己』があるのであって、『自己』に措定されて『他者』があるわけではない」[4]のである。

 この「自己」理解を、石原吉郎は「偉大なユーモア」において「パロディ」=「ユーモア」として再び語ることになるだろう。

 第一に、僕らは絶対に単独に存在しており、それ以外の方法では存在のしようがないのだということを。僕らの実体はひとつの完璧な「関係」であり、この「関係」は、それが生ずるや否や、もとの関係へ関係して行くよりほかはないというのが、単独者であるということの意味である。このような関係において僕は詩を書く。というより、詩は僕にとって、このような関係の確認以外のなにものでもない。このような関係において、僕らは孤独であり、無限に孤独である。(…)僕らのなかで連帯が始まるのは、僕らのおのおのが、神によって個別に拒否されているという承認が始まるときである。

                  (石原吉郎「偉大なユーモア」)

 

 「僕らの実体はひとつの完璧な『関係』であり、この『関係』は、それが生ずるや否や、もとの関係へ関係して行くよりほかはない」は、ほとんどキルケゴールの「関係がそれ自身にかかはる」そのままではあるが、問題は、我々が「絶対に単独に存在して」いるにも関わらずに「関係」の網の目に絡めとられて「自己」が「自己」から疎外されてゆく経験である。もちろん、我々は、生きている限り、絶えず「自己」を「自己」から疎外さされざるを得ないのだが、石原吉郎の場合は強制収容所において文字通り身をもって体験することになる。例えば、それは「ある<共生>の経験」で描き出された食事の分配の場面、「敵意や警戒心」に満ちた一対一の対峙において「公平な食事がとれるような方法」、つまり生きるためには「他者=第三者」としての「掟」が必要になるのである。そして、これによって、その「掟」が「自己」を決定して、「自己」を「自己」から疎外させる。強制収容所はそのような「掟」によって、人間を「均された」状態にしてゆく(=「私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動した」)あるいは、その「均された」状態=「平均化」の果てに「個」が「多数」の中に回収されることも意味する。なぜならば「ここではただ数の中へ埋没し去ることだけが、生き延びる道」であるからだ。むしろ、これは強制収容所という場所が特異であるというわけではなく、むしろ、我々が生きている社会もそのような「掟」が張り巡らされて、「平均化」されている。強制収容所という場所が、その「掟」を目に見えやすいように曝露しているに過ぎない。

 

 それにしても絶望は、いま一つの意味において一そう明らかに、死にいたる病である。この病ではひとは死なない(普通にひとが死ぬと言つてゐる意味では)。いひかへればこの病は肉体的な死をもつては終わらない。反対に、絶望の苦しみは、まさに死ぬことができないといふ点にある。絶望はいわゆる業病にとりつかれた者の症状に似てゐる。彼はそこに横たはつて死にさいなまれてゐながら死ぬことができない。かくて「死ぬばかりに病んでゐる」といふうのは、死ぬことができないといふうことであるが、といつて、生きられる希望がまだそこにあるわけではない。いな、最後の希望である死さへも来ないほどに希望が絶たれてゐるのである。死が最大の危機であるならば、ひとは生をねがふ。一そう恐るべき危機を知つたときには、ひとは死をねがふ。死が希望の対象となるまでに危険が大きくなつた場合の絶望とは、死ぬことができるといふ希望さへも絶たれてゐることである。[5]

 

 『死に至る病』におけるこの部分は世界の強制収容所化を生きる我々にとってあまりにも予言的な響きを持っているかもしれない。もちろん、総力戦とそれに付随して誕生することになる強制収容所キルケゴールが知るよしもないが、今この箇所は全く別様に読まれるべきであろう。「彼はそこに横たはつて死にさいなまれてゐながら死ぬことができない」は、石原吉郎の詩「葬列列車」における「真っ黒なかたまりが/投げ込まれる/そいつはみんな生きており/汽車が走っているときでも/みんなずっと生きているのだが/それでいて汽車のなかは/どこでも屍臭がたちこめている」状況、つまり、人間が剝き出しの「もの」として存在せざるを得ないことを思い出させる。石原吉郎は収容所体験において二度の「淘汰」を目撃したが、むしろ、その「淘汰」を超えてしまえば、「死」を断念しなくてはいけない(間違っても「生きる」ことを選び取ることではない。「死」を断念することによって、「生きている」にすぎない)しかし、このような「絶望」的な状況において、むしろ、そこに「単独者」になる可能性を石原吉郎は見出しうる。つまり、「個」が「多数」に飲み込まれることによって一旦、主体性を喪失する=「失語」を経験することによって、逆説的に「単独者」の自覚を持つことになる。この「絶望」を媒介とした「弁証法」の動き、そして最終的に到達する「単独者」という運動は実は『死に至る病』においても見出すことができる。

死に至る病』において、キルケゴールは、「絶望」を「弁証法」的に論述する。なぜなら「絶望はキルケゴール自身がたびたびそう述べているように、明らかに『弁証法的』性格を持っている。絶望は人間にとって恐るべき病であると同時に、それこそが信仰への第一の契機となるというもろ刃の剣であり、病と救いの弁証法を内に含んでいる。『死に至る病とは絶望Fortvivelseである。』絶望はどこまでも病であって、薬ではない。しかし、不安の概念において、『正しく不安になることを学んだ者が最高のことを学んだ』と言われるように、ここでも絶望は、『信仰にいたる通路』となる」[6]がゆえに、最高度の「絶望」は同時にそれだけ「救済」の可能性も高まることになる(「危険の存在するところ、救いもまた育つ」)キルケゴールは、そのように「絶望」を段階的に叙述する。つまり、最低度の「絶望」である「絶望であることを知らない絶望」、自分が「絶望」であることに気づいていない「絶望」であり、大多数の人々はこのまどろみの中にいる。二段階目の「絶望であることを知つてゐる絶望」、そしてこの絶望は、さらに二つに分けることができる。つまり、a「絶望して自己自身であらうと欲しない場合。弱気の絶望」(=「女性の絶望」)b「絶望して自己自身であらうと欲する絶望。傲慢」(=「男性の絶望」)。aの「弱気の絶望」は、さらに二種類あり、①地上的なものについて絶望する弱気②永遠なものに対しての絶望。この②が内に閉じこもって強度を増すと、bの「傲慢」になり、「傲慢」は「自己についての意識の上昇があり、絶望についての意識もさらに大きくなっている。絶望は、行為としての自己を意識しており、もはや外からくる受難ではなく、直接に自己から来るのである。絶望して自己自身であろうとするためには、無限な自己の意識がなければならない。彼は否定的な自己の力を借りて、彼の良くする自己を作り出そうとする。絶望して自己自身であとうとする、かかる意識が『ストイシズム』と呼ばれてよい絶望」[7]である。この最終段階であると同時に最高度の「絶望」を癒すためには、その「自己」の執着を捨てること、それは取りも直さず神との一対一の関係に入ること、「信仰」の情熱に賭けることである。

 このようにみていくと、石原吉郎はbの「絶望して自己自身であらうと欲する絶望」を如何にブレイクスルーするか(「脱-自」)に全存在を賭けているかのように見える。つまり、初期-中期の自身の「体験」に根ざした「位置」=「姿勢」に凝固させる強度のある詩作から、後期のそれすらも突き崩す「貧しさ」への移行は、「断念」を「断念」するという場所まで行きつくことになる。そこには、「位置」=「姿勢」は、あるいは「告発しない」という意思も存在することはもうない。ただ、「なによりまず疲労があり その期待として衰弱がある この重大な錯誤に私が狎れることはない 相互の反応の外に私は在る 安んじて疲労し 衰弱しつづける 私は疲れた」(「衰弱へ」)の「私は疲れた」という瘦せ細った言葉に「賭けるものの情熱は放棄する者の情熱とは同じものである」と語る詩人は「賭け」たのではなかったか。

 

[1]キェルケゴール 松浪信三郎訳,1948,『絶望に至る病』,小石川書房,p.12

[2]村瀬学,1986,『新しいキルケゴール―多者あるいは複数自己の理論を求めて』,大和書房,p.266

[3]村瀬,同上, p.263

[4]村瀬,同上, p.275

[5]キェルケゴール,同上,p.21

[6]豊福 淳一,1995,『キルケゴールの実存思想―ヘーゲルと対比しつつ』,高文堂出版社,p.272

[7]豊島,同上, pp.279-280

なし崩しの果てに―――松本圭二小論

 

 

 

詩は、カミソリで身体中を切り裂くような行為だもんね。違うかね。違うならじゃあおまえらはどうやって詩を書いているんだ。俺は血だらけの詩を浴びるほど読んで来たよ。早稲田通りの「あらえびす」に籠って。

 

松本圭二「ダブル・コックローチ」)

 

 

 

 松本圭二は、探している。「ポエジーは死んだ。/エレジーは殺された。/残っているのは、バンジーだけだ」という苦い認識を受け入れながらも彼は探し続けることをやめることはない。では、何を、探し続けているのだろうか。例えば、それは、「海」と名づけられるものではないか。『詩人調査』は、新潮2010年03月号に掲載された作品であるが、アル中のタクシードライバー、園部航の元にヒラリー・クリントンに似たエイリアン=「宇宙公務員」が現れる。エイリアンの目的は「詩人サンプル」として園部が適正であるか調べるためだった。物語の最後には、園部が、「預言者、ギャンブラー、テロ組織の首謀者といった詩人条件をおおむね満たしている」のにも関わらずに、「未だ詩人覚醒までには至っていない」のは、「いくつかの失われた記憶」を取り戻す必要があるのだと、「宇宙公務員」は報告する。そして、「宇宙公務員」が参考までにと本部に添付して送る「園部が失った記憶の一部」の音声資料はこのような子供との会話であった。

 

 

「海は?」

「海?」

「海ならただでしょ?」

「だっておまえ泳げねえだろ?」

「見るだけ?」

「うん」

「じゃあ海でも見に行くか」

 

松本圭二『詩人調査』)

 

 

 

 園部は、「新宿レコンキスタ作戦」のための筑摩書房版世界文学全集四〇巻に文字通り「爆弾」を詰め込んだ五冊の「詩集」=「チェーホフ爆弾」を作った後に、第二「詩集」として「海を見に行け」を生み出すことになるが、ここで、付け加えておくならば前作の『あるゴダール伝』の登場人物の一人であり、「ゴダール」のあだ名を持つ詩人、権田類も「海を見に行け」という同名の「詩集」を出している。しかし、その「海」は、「近くにあるはずなのに、うんと遠い気が」するものとして認識されるものではないか。例えば、『あるゴダール伝』において、権田と「僕」(=「松本圭二」)が、その「絶望的な共同生活」を終わらせるために「海」を見に行くのだが、「廃材のような海の家。犬を連れたおばさんと、凧上げに失敗し続けているファミリー。お父さんが悲しい。やる気のないサーファー連中が遠くで焚火をして」いるような「淋しそうだった。/淋しくて寒い」光景(=「おれの海は、こんな海じゃねえ……」)として、あるいは、『半漁』であれば三重県四日市の「コンビナートに囲まれた陰惨な海」、そしてその果てには、『R/F 5つの断片』において車で疾走することになるアラビア半島の砂漠の「海」があるのではないか。そして、見つけたと思ったらすぐに失望に変わってしまうその「海」は、永遠に届くことはないというポジションをキープしているがゆえにいっそう詩人を突き動かすもの、すなわち「ポエジー」の隠喩として存在している。もちろん、「海」=「ポエジー」という図式は、あまりにも安易に過ぎるのかもしれない。しかし、ここで問題にしたいのは、「海」=「ポエジー」という図式そのものではなくて、「海」=「ポエジー」が果たして届かないものとして、彼の目の前にあったのだろうか。いや、むしろ、こういえばよいだろう。彼は、「海」に届いてしまったのではなかったか。

 

 

そうして僕らは 鮮やかなアクリル質の皮膜のなかで 日々の没落を温めていた

その腐敗物は

恋人の夢の彼方で匂っている

熟れ落ちた柘榴なのだろう

僕は シオカラトンボの飛行に誘われるまま ぬるい湿林に嵌まってしまう

切り取られた空のゆるまりのなかで なおもゆるまってゆく

柘榴

親密な体臭に絆された溺愛の白雲がひかれてゆく ぬるく ほとばしる

 

絨毯爆撃がしたい

 

ロング・リリイフ

戦意の喪失を引き継ぐために

僕は無傷の卵巣を培養している

 

                (松本圭二「ロング・リリイフ」)

 

 

 

 第一詩集『ロング・リリイフ』に収録されている詩は、「現代詩」らしい「現代詩」―――……言い直そう、「戦後詩」らしい「戦後詩」ではないだろうか。全編が流麗で、瑞々しい感性によって描かれている。松本は『ロング・リリイフ』を出版することは、「大学を中退するときに私は一度忘れたい」という「現代詩」への決別であり、文字通り「青春」=「詩」への別れになるはずだった。私たちは、アルチュール・ランボーが19歳で「詩」に「最終通告」を叩きつけて、「武器商人」への転回=転向を知っている。「詩」というものが「青春」の限られた時期のものであるという共通認識は多かれ少なかれ持っているのではないか。「現代詩」に限って言えば、谷川雁が「瞬間の王は死んだ」と言って詩を放棄して「東京に行った」ように、帷子耀が20歳そこそこで詩に別れを告げて、パチンコ屋の社長になることを、誰が責められるだろうか。むしろ、それに気づかない、あるいは気づかないふりをすることこそが不誠実(=「年寄りの詩なんて汚ねえだけだ」)なのではないか。

 しかし、それでも「詩人」であることはどういった意味を持つのだろうか。「『詩人』なんてな、今では差別用語じゃないですか。わたしなんて恥ずかしくて、妻にだってやすやすとは口にできませんよ」と、彼は『詩人調査』のアル中のタクシードライバー兼「詩人」に語らせることになる。あるいは、「一九六八年革命と現代詩」の共同討議において、映画『レフトアローン』の冒頭のシーンを「絓さんや松田政男が壇上にあがって、『今日は朝まで騒いでよろしい』みたいなことを言っている。そういうのを見ていても、『何でおまえらに言われなくてはいけないんだ』と僕なんかは思ってしまう。おっさんたちに煽られて、馬鹿騒ぎをしている学生や学生以外の人たちを見ていると、僕はほとんど絶望的な気分になる」[1]というその嫌悪感は、「革命ごっこ」に「詩を書いてしまうことの羞恥心」を持たないような自称「詩人」たちと同じものを見たからではないのか。「今でも自分の詩が大衆化されることを夢見ている詩人が少なからずいて、売れてナンボとうそぶきながらダレた詩を書いているけれど、若いやつに多くて気が滅入るけれど、気の毒としか思えない。ポップ詩だのビジュアル詩だのと言って、被害者ヅラした甘ったれの詩人」[2]そのような後退に対して真っ向から対立するものが「現代詩人」なのではないのかと、松本圭二アジテーションする。しかし、彼は、小詩集「ミミズノウタ」を最後に「詩」から「小説」へと転回=転向したように見える。そして、「詩」への復帰作第一号である「ダブル・コックローチ」において「書かねえよ。詩は」と吐き捨てる。 

 しかし、この「詩」から「小説」へのなし崩しの転回=転向をどこで見極めればよいのか。一般的にその転回=転向の瞬間を「散文」と「詩」の境界を曖昧化させることによって逆説的に「現代詩」足り得ようとした『アストロノート』から考えるべきなのかもしれない。しかし、『ロング・リリイフ』において「精神のピーク」=「法悦の時」、谷川雁の言うところの「瞬間の王」に届いてしまったこと、そして届いてしまったからには、なし崩し的な転回=転向してゆくしかなかったのではないか。サミュエル・ベケットには「想像力は死んだ、想像せよ」という題名の短編があるが、松本圭二に即して言うならば「詩は死んだ、詩作せよ」なのではなかったのか。

 

 

それはビスタサイズをした夢だ

ばかやろう

 

           (松本圭二『詩集工都』)

 

 

『詩集工都』の「感覚を自然に流露した言葉が『ロング・リリイフ』で、その言葉が消尽した状態が『詩集工都』」(鎌田哲哉)であるのは、「瞬間の王は死んだ」それ故に言葉がその場で「消尽」してゆくしかないその絶望的な足掻きそのものである。現代において唯一可能な「詩」は「テロ」以外に存在しないのだと、松本は言う(「誰にも捧げない詩」)それ以外の「海」=「ポエジー」は、砂漠化されてゆくしかない。*1しかし、それでも、あるいはなおいっそう『ロング・リリイフ』に立ち戻ってゆくのではないか。「とにかく僕は『ロング・リリイフ』までもう一度帰って、そこからやり直すことにしました」と自身のブログにおいて『あるゴダール伝』の告知ページで書いている。『アマ―タイム』においては、一転する「饒舌」と眩暈のする「速度」を、『アストロノート』では、「ことば、ことば、ことば」そのままの「散文」と「詩」の境界の破壊が行われるだろう。しかし、「瞬間の王は死んだ」という状況を引き受けるゆえに、「本物」ではなくて「偽物」を、「詩」ではなく「散文」を、「詩人」ではなくて「コックローチ」であらねばならないのではないか。 

「散文的崩壊」や、「ポエジーの最終形態は徹底的な言語破壊」というなし崩しの果てを、松本圭二は探している。

 

 

 

参考文献

 

 

松本圭二,2000,『アマ―タイム』,思潮社

松本圭二,2006,『アストロノート』,「重力」編集会議

・2002,『重力〈01〉』,「重力」編集会議

・2003,『重力〈02〉』,「重力」編集会議

・水と緑と詩のまち前橋文学館,『松本圭二 : let's get lost : 私は何かの間違いで詩集を造ったりはしない : 前橋文学館特別企画展第14回萩原朔太郎賞受賞者展覧会』

・下村康臣、武田崇元松本圭二中島一夫手塚敦史、宿久理花子、木藤亮太、大澤南,2017,『子午線──原理・形態・批評 Vol.5』,書肆子午線

・2009,『新潮 2009年 07月号』,新潮社

・2010,『新潮 2010年 03月号』,新潮社

・2008,『すばる 2008年 04月号』,集英社

・2011,『すばる 2011年 12月号』、集英社

 

[1]稲川方人、絓秀美、松本圭二井上紀州鎌田哲哉,2003,「一九六八年革命と現代詩」『重力02』,「重力」編集会議,p.44

[2]松本圭二,2002,「ミスター・フリーダム」『重力01』,重力」編集会議,p.59

[3]http://soralis.yu.to/tibikuro65.htm(2017年2月6日取得)

*1:80年代、荒川洋治が広告の言葉に「詩」を発見したように、むしろ、我々の世界は「ポエム」化した世界なのではないか。我々の時代ほど、「ポエム」に飢えた時代はないのではないか。数秒ごとに吐き出される「つぶやき」は、まさに「ポエム」の時代にふさわしいものである。「詩」が消え去ることによって、すべてが「ポエム」によって埋め尽くされたのではなかったか。

「絨毯爆撃がしたい」

 時間がない。

 

 『子午線』に載った松本圭二の「マツモト・エレジー」を読んでいたが、最近は、また「モード」が変わったのではないか。

 2016年5月号の『ユリイカ 石原慎太郎特集』(しかし、何故石原慎太郎特集に載るのだろうかと思ったが、松本圭二も「イシハラ」について書いてあったよな、『重力』に掲載された方の「戦争まで」ていう詩で)の「ダブル・コックローチ」も、小詩集「ミミズノウタ」から五年ぶりの「詩」であるから「モード」というか書き方が変わっても驚くことはないが、この書き方、『アストロノート』では、曲がりなりにも「詩」であろうとしたが、それすらも放棄したのではないか。「ポエジーの最終形態としては徹底的な言語破壊」(「ダブル・コックローチ」)は、むしろ詩(から/へ)の回帰によって、この時代、「詩」であるということは、「散文的」であることのなし崩しの果てにしかないということなのだろうか。

 

 『松本圭二 : let's get lost : 私は何かの間違いで詩集を造ったりはしない : 前橋文学館特別企画展第14回萩原朔太郎賞受賞者展覧会』を借りて読んでみたが、松本圭二は高校時代、ブラスバンドに入っていたこと、大学入学後の一年間は早稲田大学交響団に入っていたこと、ちなみにクラリネットを演奏していたらしい。鎌田哲哉か何かが松本圭二は「ピンク映画」に出演していたということを言っていたように思うが、ここに載っている『月の漠(仮題)』『ヨコハマ・ロング・グッドバイ(仮題)』がそうなのだろうか。三本の映画に出演していて、そのうちの二本しか掲載されていないので、ここに掲載されていないのがそうなのかもしれない。分からない。

 

 

適当

  

 

 江戸時代には乱心者(精神病者)に対する監護処置として、入牢・檻入・溜預という制度があった。入牢は、家族、家主や五人組などの入牢願いによって、乱心者を監禁する制度であり、檻入は、居宅に作った「囲補理」(檻)に監置し、入牢と同様に、家族、家主、や五人組などが連署した檻入手形を官に提出する必要があり、それに加えて、乱心に相違ないという確認書、医師の口上書を添える必要があった。入牢が、乱心による問題行動への懲戒的な意味合いから子弟らに行われたのに対して、檻入は家督相続人と懲戒には馴染まない尊属に対して行われたと考えられる。溜預は、入牢中の乱心者が、病状の悪化により牢獄での監禁が困難になった場合、非人頭が監督する溜に預けることである。江戸には浅草と品川の二か所に非人溜があって、行旅病人、浮浪者、軽犯罪者、出獄人が預けられていた。[1]

 明治時代になると、乱心者にかわり瘋癲人という呼び名が使われ始めた。瘋癲人の入牢は、監獄への収監という形で存続していた。瘋癲人の監護及び不良子弟等を教戒のために自宅に鎖錮(監禁)する場合は、瘋癲人は医師の診断書を添えて親族が連印して願い出る必要があった。だが、引受人のない場合は、監獄に収容した。檻人は、鎖錮という言葉に代わることになり、一九〇〇年(明治三三年)の精神病者監護法が規定した私宅監置は、自宅での鎖錮の延長線上にある。溜は、明治初年には存続していたが、一八七二年一〇月に設立された養老院にその機能が引き継がれることになる。養老院は、東京市中の浮浪者を収容するための施設であり、ロシア皇帝の第四皇子アレクサイ・アレクサンドロヴィッチの東京入りに合わせて設立された。この時、市中の「浮浪者」が一斉に本郷元加州邸跡の「めくら長屋」に約二四〇人が強制収容されることになる。一八七五年の一〇月には、東京府からの要請で、施設内に狂人室が設置され、一八七九年には養老院が神田和泉(いずみ)町へ移転すると、その建物を借り受けて東京府癲狂病院が発足している。[2]

 「日本では、明治以降は、社会病理的問題についての政策対策は、たいてい外圧によって開始される」[3]と言われるように、前述したロシア皇帝アレクサイの来日に合せて「行路病者や窮民」といった「国辱」を押し込めるために東京養老院が発足されたのだが、それ以上に江戸時代の社会的諸装置の崩壊が事情の一つに数えられる。

 

 

 急速な近代化は、それまでの社会にはなんとか適応し、あるいは社会の方でもなんとかこれを吸収していた精神障害者を、事例として析出させてしまうのである。つまり、精神障害者が事例として問題になるのは、本人の異常性と社会の側の受容度の函数関係になるわけであって、社会変動によってこの糸が動けば、精神障害者が事例として表面化し、つまり、有病率は高くなる。[4]

 

 

 

 精神病の有病率が高まった社会において、精神病院が求められることになる。日本で初めての精神病院は、公立病院である京都府癲狂院が設立されたのは一八七五年であり、ついで前述した東京府癲狂病院が一八九七年に設立された。しかし、当時、精神病院は、呉の記述のように「治療看護上ノ処置ハ甚ダ不完全ニシテ、患者二三食ヲ給エルノハソノ主務トセルモノノ如ク、之ヲ圧制シテ、コレニ桎梏ヲ施シ極端二言ヘバ動物ノ餌養ニモ似タルモノナリト云ウ」[5]といった劣悪な環境に置かれており、精神病院の数も少なかった。そして、そのように数少ない精神病院に入れなかった精神病者は、窮民や浮浪者に身を投じるものもあったが、「躁暴ナル患者、又ハ自他ニ対シテ危険ナル患者ハ、桎梏鎖鑰二ヨリテ強制セラレタリ」[6]というような座敷牢による私宅監置が行われていた。

 一九〇〇年(明治三三年)に一八八四年(明治一七年)の相馬事件をきっかけとして、「精神病者監護法」がつくられることになる。この法律は、「第一に、不法な監禁を防止すること、すなわち精神病者でない者が不当に監禁されるという事態を防ぐことである。第二に、狂気から社会を防衛することであり、それは監禁する必要がある精神病者を間違いなく監禁すること」[7]を目的としている。そして、この「精神病監護法」は、私宅監置の制度を残していることも問題があった。「明治三年の新律綱領では『精神病者の殺人が親族の看守厳ならざるによるときはこの親族に杖九〇を課す』と規定し、明治一三年発布の旧刑法でも『発狂人の看守を怠り路上に徘徊させたものは三日以上五日以下の拘留に処す』という恐ろしい規定があるので私宅監置は、ただ病人を逃がさなければいい式のもの」[8]にならざるを得ない。それゆえに、「自他に危害を及ぼしそうな患者は、手かせ足かせをはめたり、桶伏と評して井戸側にそこを付けたような大桶に伏せて閉じ込められることさえあった」[9]というような非人間的な扱いを受けていた。貧民で余裕のない家庭はなお一層ひどく、「患者の給食も極めて悪く、身を掩う衣類もなく、腰巻一枚で、木椀をもって床下の土を掘って入口の辺りに積む運動を繰り返している。運動も服薬も洗濯もせず入浴も三か月に一回くらいである」[10]といったように凄惨を極める。そして、この光景を目の当たりにした呉秀三は、精神病院の必要性を訴えたのである。

 

 

 当時、精神病者が精神病院や私宅や監置室に収容されるとき、踏まねばならない手続きとは以下のようなものであった。まず、精神病者が発生したとき、彼を監視する義務を負う者として監護義務者が定められる。そのとき定められた監護義務者が、それ以降すべての決定権をもつことになる。そして、精神病者の行為が社会的な危険性を体現し、それが監護義務者による監視能力の限界をこえたとき、彼は危険な精神病者として精神病院や私宅監置室への監禁を望まれたのである。[11]

 

 

 しかし、その時、精神医学の役割は、監禁施設への収容許可書を作成することだけであった。何故なら、当時の狂気をその振る舞いにおいて識別していた認識のあり方が支配的であったことが精神医学を疎外していたからである。「社会の寛容度と家族の監視能力との限界において」[12]監禁施設の精神病者は生み出され、精神病において精神科医に期待されていることは、監護義務者の手に余った精神病者の監視を引き継ぐこと、これだけである。この当時の狂気を管理していたのは、精神医学ではなく、警察権力であった。それ故に、「精神病院への入院とは精神病者を監禁することを意味していたのであって精神病院の入口を支配していた問いかけとは、ある精神病者に治療か否かでではなく、監禁という処遇が適しているか否かというものだった」[13]のである。

 このような状態の中にあって、呉秀三を中心とした精神医学者たちの働きかけによって狂気を管理する主導権を握ろうとした。そこで問題となるのは、如何に精神医学が法の万全な運用を望むのであればそこに欠かすことのできない知としての地位を得るのかであった。精神医学の鑑定により犯罪者の狂気が発見されて、その狂気によって犯罪者が無罪放免される事態のうちにこそ、精神病院および精神医学のヘゲモニーの確立を目指そうとした。つまり、「司法のうちではなく、司法のかたわらに精神医学的な実践の基礎をかたちづく」[14]り、「犯罪者のうちに狂気を発見するという情熱は、監禁への意志によって裏打ちされていたのであり、処罰の過程からの精神病者の解放の要求は、結局のところは社会における監禁への要請へと通じて」[15]いるのである。ここでも、問題になるのは、精神病者の治療の目的以上に、精神病者から社会を如何に防衛するかということである。

 

 

 法を犯した精神病者、精神医学がそこから取り出そうとしたのは、その根底に〈犯罪性〉が沈み込んだ狂気である。なぜなら、そうした狂気の発見が量的に拡大されればされるほど、それは精神医学的な施設の設立を支持することになったからである。司法において精神病者の無罪を証した狂気を、社会における有罪判決の根拠に反転させること、あるいは裁判所においてではなく、それとは異なった場所で狂気の犯罪性を問うこと、これこそが司法との交わりにおいて精神医学が達成しようとしたことがらであった。したがって、狂気を鑑定せねばならないという情熱は、狂気と犯罪とを分離させることよりも、両者がきわめて親和的であるのを明らかにすることに注がれていた。[16]

 

 

 

 そして、精神医学はさらに一歩先に進もうとする。つまり、以前までは、「その振る舞いにおいて識別していた認識のあり方」によって精神病者を識別し、監禁していたのに対して、精神医学は狂気を不可視の性質として設定しなおすことによって、「狂気と予防」という関係が成立させる。そして、精神病院は「精神医学が形成した狂気と形成した狂気と犯罪との関係が最終的に統括される場所」[17]として存在することになる。

 一九一九年(大正八年)に「精神病院法」が成立することになる。これは、「精神病院者保護法」では、精神病者の処遇に関する責任と権限を持つ者は、たとえ精神病内においても監督義務者であった。だが「精神病院法」によって、保護及び治療上の一切の責任と権限が精神病院長に集中することになる。あるいは、「精神病院保護法」では、罪を犯した精神病者に関する規定や、監督義務者をもたない精神病者の処遇についても不遇があった。これに対して、「精神病院法」においては、罪を犯した精神病者や身寄りのない精神病者を収容することが可能になった。[18]これは、「精神医学が望んだすべての対象を、精神病院に収容することが正当化されるにいたった」[19]ことに他ならないのである。これによって、精神医学のヘゲモニーは確立されることになる。

 

[1] 橋本明,2011,『精神病者と私宅監置 近代日本精神医療史の基礎的研究』,六花出版,p.18

[2]橋本,同上,pp.18-20

[3]小田晋,1998,『日本の狂気誌』,講談社,p.336

[4]小田,同上

[5]小田,同上,p.337

[6]小田,同上,p.338

[7]芹沢一也,2001,『“法”から解放される権力―犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』,新曜社,p.87

[8]小田,同上,p.361

[9]小田,同上

[10]小田,同上,pp.361-362

[11]芹沢,同上,p.89

[12]芹沢,同上,p.92

[13]芹沢,同上,p.97

[14]芹沢,同上,p.115

[15]芹沢,同上

[16]芹沢,同上,pp.116-117

[17]芹沢,同上,p.133

[18]芹沢,同上,pp140-141

[19]芹沢,同上,p.141

 

 

“法”から解放される権力―犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー

“法”から解放される権力―犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー

 

 

 

日本の狂気誌 (講談社学術文庫)

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精神病者と私宅監置 近代日本精神医療史の基礎的研究

精神病者と私宅監置 近代日本精神医療史の基礎的研究

 

 

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『人間失格』の三枚の写真と、幽霊

 

人間失格

人間失格

 

 

 

 

 

ここに三枚の写真がある。この三枚の写真について、一つ、二つ考えてみようと思う。それ以上でも、それ以下でもない、三枚の写真について語ること、それによってどこまで遠く離れることが出来るのか、ただそれだけを試してみたいと思う。「はしがき」において、「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」という書き出しによって、小説は始まることになるが、我々は「その男」が誰かを知らない。ここで述べられる「その男」が誰であるのかを我々が推測するのはこの数ページあとの「第一の手記」を読み始めてからであろう。「恥の多い生涯を送ってきました」と書きはじめるその男、あるいは「第二の手記」において「海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に……」から書きはじめるその男、あるいは「第三の手記」において「竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました」から書きはじめるその男。「第一の手記」と一枚目の写真、「第二の手記」と二枚目の写真、「第三の手記」と三枚目の写真がそれぞれ対応するかのように見える。だが、それは果たして自明のものなのだろうか。つまり、我々が、「第一の手記」を書いている人物と「不思議な表情の子供」、「第二の手記」を書いている人物と「不思議な美貌の青年」、「第三の手記」を書いている人物と「不思議な男」が対応していると錯覚しているだけではないか。そもそもこの写真と、そして手記はどこから来たのか。「あとがき」には、このように書かれている。その小説の語り手である〈私〉が「その男」が「まだ生きているのか」どうかを京橋のスタンド・バアのマダムに聞くとマダムはこのように答える。

 

 

「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです」(太宰治人間失格』新潮社,p.154)

 

 

「差出人は葉ちゃんにきまっている」としながらも、「その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかった」のであり、そもそも、三枚の写真だけでなく、その三つの手記も、葉ちゃん(=葉蔵)が書いた保証が何処にもないのだ。もっと意地悪く言えば、「はしがき」と「あとがき」が作品に組み込まれており、この大庭葉蔵という人物がそもそもフィクショナルな存在なのではないか。しかし、興味深いのは、このマダムが「差出人は葉ちゃんにきまっている」と信じ込んでしまうように、我々がその小説を太宰治(津島修治)という人間の私小説である、と信じ込んでしまうのだ。それは、『道化の華』における心中事件を昭和五年一一月に、鎌倉小動崎の心中未遂事件の事実を元に書いていると短絡することと同じことではないか。大庭葉蔵という同姓同名の主人公を持つこの小説においても同じような疑似餌が作者によって周到に用意され、我々がそこに誘い込まれるのを待っているのだとすれば、では、どのようにその誘惑に抗うべきなのだろうか。そのためにも私はこの三枚の写真についてだけを語りたい。一枚目は、「その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真」であり、「(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真」であるいるの。〈私〉は、写真のなかに映る場所(「庭園の池のほとり」)そして彼を取り巻く「大勢の女のひと」に視線を向けながら、「その子供」に視線は移ってゆく。まずは、「その子供」の服装(「荒い縞の袴」)から視線は上昇してゆき、「その子供」の顔に〈私〉の視線は立ち止ることになる。「首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真」であると〈私〉は言う。しかし、「鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)」が、「その子供」を見て「可愛い坊ちゃんですね」という「通俗の『可愛らしさ』」も「その子供の笑顔に無いわけではない」のだ。しかし、「美醜に就いての訓練を経て来たひと」(それは、ここでの語り手である〈私〉も含まれているのだろう)にとってはひとめ見て「なんて、いやな子供だ」と「毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない」のだ。しかし、「その子供」の笑顔の醜悪さを〈私〉が書きたてれば、書きたてるほど(「イヤな薄気味悪いもの」「猿だ。猿の笑顔だ」「顔に醜い皺しわを寄せているだけ」「けがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情」)逆に〈私〉の視線はますます「その子供」の顔に文字通り釘付けになってゆく。むしろ、「その子供」の醜さを語ろうと思えば、思うほどその記述は、醜さの「それ」としか呼べないものを掴み損なって「こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった」と書かざるを得なくなる。二枚目は、「学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしない」が一枚目の「その子供」が「びっくりするくらいひどく変貌」して「おそろしく美貌の学生」が写真には写っている。〈私〉は服装(「学生服」で「胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ」ている)から、「美貌の学生」が「籐椅子とういすに腰かけて足を組」んでいることに視線を向けながらも、やはりその顔に視線は立ち止る。「美貌の学生」の笑顔を、「その子供」の笑顔と比べて「かなり巧みな微笑」であるとしながらも、「人間の笑い」と、どこか違う違和感を持つ。「血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ」といったものの充足感が少しもないような「鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている」のである。ここでも、〈私〉はその違和感の正体を掴もうと思って、語ろうと、語ろうと言葉を連ねる(「一から十まで造り物の感じ」「キザと言っても足りない」「軽薄と言っても足りない」「ニヤケと言っても足りない」「おしゃれと言っても、もちろん足りない」)のだが、それに届くことはない。ここで、繰り返される「足りない」という言葉が対象に近づこうと思えば思うほど、逆にその対象との距離は離れざるを得ないもどかしさが吐露されるのであるが、言語化不可能なその違和感に〈私〉は思わず「どこか怪談じみた気味悪いもの」としてその写真に写る「美貌の学生」の印象を述べる。そして、最後の三枚目の写真において、「最も奇怪なものである」と〈私〉は感じることになる。「まるでもう、としの頃がわからない」頭にいくぶん「白髪」の男。前の二枚の写真と同じように、その写真が写された場所(「ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)」)に視線を泳がせながら、「小さい火鉢に両手をかざし」ているその男の顔にやはり視線は固定されることになる。しかし、前の二枚の写真と違って、「こんどは笑っていない」というよりも、「どんな表情も無い」のだ。「自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする」その写真に対して〈私〉は、前の二枚の写真のように語ろう、語ろうと思ってそれを掴み損なうというよりも、その写真に対して初めから語ることは不可能であることを意識しているように思える(「額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い」)しかし、自身も語ることが不可能であるようなのっぺりした表面をもつそれ(「眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない」「画にならない顔」「漫画にも何もならない顔」「眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない」)にも関わらずに、あるいはそれゆえいっそう「不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる」のは何故なのだろうか。そして、最終的に、その写真の印象は、「どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせる」ものであると〈私〉は書きつける。〈私〉が三枚の写真を見てそこに写る「その子供」「美貌の学生(青年)」「男」の顔にそれぞれ感じる「不思議」な感じは何に由来するのであろうか。ここで、ロラン・バルトの『明るい部屋』で使われる「ストゥディウム」と「プンクトゥム」によって〈私〉が感じる違和感の正体を考えてみたい。「ストゥディウム」(stadium)は「(…)《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)」[1]であると、ロラン・バルトは述べる。そして、「プンクトゥム」(punctum)は「ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(私の至高の意識を写真の意識をストゥディウムの場に充当するわけではない)。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。(…)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもあり――しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然」[2]なのである。「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の違いをゆっくりと詳しく見てゆこう。「ストゥディウム」は、「一般的な関心や文化的興味」を惹き起こすもので、それは五つの機能を持っている。

(1)「情報を与える」という機能。

(2)「表象する・描く」という機能。

(3)「驚かす」という機能。

(4)「意味する」という機能。

(5)「欲する気持ちを抱かせる」という機能。[3]

ひとつひとつ見てゆくと(1)の「情報を与える」はそのまま情報伝達として写真の機能である。(2)の「表象する・描く」というのも、そのまま写真が対象を表象する写真の機能である。(3)の「驚かす」という機能は、さらに細分すると①稀少性の高い被写体の撮影②決定的瞬間の撮影③技術的困難なものの撮影④美術的効果を狙った撮影技術⑤思わぬ掘り出し物の撮影など[4]の機能を持っている。そして(4)の「意味する」という機能は、例えば、広告写真を例にとってみれば、商品を売るために、その写真に商品の「意味」を付与することになるだろう。あるいは、記念写真などにも、それが撮られることによって何らかの意味がそこに込められることになる。(5)の「欲する気持ちを抱かせる」のは、写真の願望や欲望を喚起させる機能である。これらが「一般的関心や文化的興味」を惹き起こすものとしての「ストゥディウム」であるが、反対に「プンクトゥム」はそれを破壊して私に突き刺さって来るものである。「ストゥディウム」が「全体」であるならば、「プンクトゥム」は「細部」であり、不意打ちのようにやって来るものである。例えば、一枚目の写真を例にとってみるならば、「ストゥディウム」は「大勢の女のひと」や「庭園の池のほとり」あるいは「その子供」が着ている「荒い縞の袴」などの機能(1)(2)(4)に関わるものに留まるが、それを切り裂くかのように「その子供」の笑顔(=「プンクトゥム」)が写真のなかで浮き上がってゆくことになる。一見すると、「ストゥディウム」は、言語化可能(一枚目の例で言うと、「大勢の女の人」「庭園の池のほとり」「荒い縞の袴」)であり、「プンクトゥム」は、言語化不可能なもののように思える。しかし、本当にそうなのであろうか。

 

 

 

ただし、プンクトゥムの言語化はまったく不可能だとまでは言えまい。バルトは、プンクトゥムは「名指すこと(nommre)ができない」と言う。名指すこと、すなわちそれにひとつの名を与え、それをひとつの(あるいはひとまとまりの)言葉で指し示すこと、それを定義的・概念的に、つまり安定した意味を有するものとして固定的に言語化すること、それは不可能だと言う。しかし、このことは、言語化することがいかなる仕方でもまったく不可能だということを意味しているのではない。なぜなら言葉は、言葉で表現できる限界の一歩先を表現してしまうような、動的なものなのである。プンクトゥムは、名指すことができないとしても、物語ることならできるのかもしれない。[5]

 

 

 

この小説が三枚の写真を語ることから始まるのは偶然ではないのではないだろうか。つまり、三つの手記が、三枚の写真を呼び寄せるというよりは、三枚の写真が、三つの手記を、もっと言えば物語を要請するのだ。それは、「名指すことができない」が物語ることは可能な「プンクトゥム」を物語るために、である。しかし、これではその「不思議」なものになにひとつ届いていないだろう。では、話しを少し変えてこの三枚の写真に接近してみよう。例えば、写真と「幽霊」の関係を考えてみればどうだろうか。そもそも、写真を撮られる瞬間、そのたびごとにただ一つの「死」を与える行為に他ならない。

 

 

写真の撮影の瞬間にわれわれは客体(モノ、もっとあからさまに書けば死体)と化す。誰でも不意にシャッターを切られた瞬間に、ちょうど銃で撃たれた時のようなショックを感じて、身体を硬直させた経験があるだろう。多かれ少なかれ、写真は自らの意志で自由に動きまわっていた主体を不動の石像として凍りつかせるあのメデューサの眼のような力を備えている。どんな写真でも「小さな死」の瞬間の身体の緊張と硬直の名残りをとどめている。だからこそ一瞬の沈黙とともに撮影が終わった時に、人々はあんなにも解放されたような安らぎの表情を浮かべるのだろう。ほっとして笑いさざめく彼らは、たった今黄泉の国から帰還したところなのだ。[6]

 

 

そのように、写真というものは、きわめて死に近い行為であろう。あるいは、写真が撮られるときに「私はしきりに《ポーズをとり》、またたくまに自分のもう一つの肉体をつくりあげ、前もって自分を映像に変身させる」[7]のであれば、むしろ写真のうちに新しい肉体を生み出すためには一度死を通過させなければならないのではないか。しかし、その移行の過程で、つまり、死んでもない、あるいはかといって生きてもいない状態、死にながら生きており、生きながら死んでいる状態において、「幽霊」になることに他ならないのではないか。「あまりにも長い間、写真は自らの誕生にまつわる亡霊、いわば死の亡霊に憑つかれてきた。写真は常に過去のある瞬間、すなわち、その後に我々が現在において眺めるような瞬間を捉えるといわれる。したがって写真を見るということは、過去と現在を往還する運動を経験するということであり、それはつまり時の過ぎ去り/死(passing)一般を目撃するということだ。結果として写真はやがて訪れる我々自身の置き去り/死に対して、気持ちを向かわせずにはいられない。『それはかつてあった』と『これはやがてなるだろう』を同時に突きつけながら、写真は未来の知り得ない時間に訪れる我々自身の死を予告する」[8]写真の歴史において、その最初期の記憶は、「写真に写ると魂が抜かれる」 といったような俗信も囁かれていたほど、不思議な、神秘的なものとして人々の前に姿を現していた。実際に、19世紀のアメリカにおける「ハイズヴィル事件」に端を発する近代スピリチュアリズムにおいて死者の霊との交信における顕現現象を記録する目的で写真は使用されていた。 それから、1861年にアメリカの写真家であるウィリアム・H・マムラーが、史上初の「心霊写真」を撮影したと知られている。 1826年に、現在の写真の原型とも言える銀板写真のダゲレオタイプ・カメラが発明された 、と考えてみれば、写真はその最初期から、生者と死者を繋げる「霊媒」として機能していた、とも言える……(blah blah blah)

 

[1]ロラン・バルト,1997,『明るい部屋―写真についての覚書』,みすず書房,p.38

[2]バルト,同上,pp.38-39

[3]荒金直人,2009,『写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想』,慶應義塾大学出版会,pp.16-19

[4]荒金,同上,pp.16-17

[5]荒金,同上,pp.24-25

[6]飯沢耕太郎,1995,『写真の力』,白水社,p.28

[7]バルト,同上,p.18

[8]ジェフリー バッチェン,2010,『時の宙づりー生・写真・死』,NOHARA,p.28

「別れる理由」は気にならない

 

 

 

 『別れる理由』は、「別れる理由」を探している小説である。だが、誰と誰が別れるのか、何と何が別れるのか、それすらも分からない。ただ、そこには、何らかの「理由」が存在して、対象を見失いながらもその「別れる」という運動は続けられる。あるいは、その逆に「別れる」という運動が存在することによって、事後的に「理由」は産出されて、小説の方に送り返されてゆくのかもしれない。芳川泰久(2005)の言うようにこのような原因と結果の転倒は小島信夫の作品には、例えば、「『抱擁家族』ノート」の「この夫婦は心が病んでいる。それが肉体にあらわれる。乳ガン。乳ガンが事件の原因なのかもしれない。だから一層困る」という記述が指し示すように「そもそも、心の病んでいるのが、『肉体にあらわれ』たのが『乳ガン』であれば、それは紛れもなく、ひとつの結果である。加えて、小説のなかの時間順序からしても、アメリカ青年との『事件』のあとの、いくつもの軋轢を経て時子の『乳ガン』がわかる以上、『乳ガンが事件の原因なのかもしれない』という発想には、明らかに原因と結果の転倒が仕組まれて」[1]いるのではないか。というよりも、もっと言えば「乳ガンが事件の原因なのかもしれない」の「かもしれない」から、その原因と結果の転倒を超えて、作者である小島信夫自身がその「理由」を信じ切れていない、そしてまた新たな「理由」を探し求めているような印象を受ける。もしくは、あるひとつの「理由」が見つかった瞬間、「かもしれない」としか認識することが出来ない不確かさに「だから一層困る」のではないか。そして、その「かもしれない」という不確かさにより生み出された穴を埋め合わせるために、別の「理由」が求められる。そして、その「理由」の「理由」を、「理由」の「理由」の「理由」を……その悪循環は終わることはないだろう。むしろ「理由」が探しだされ、あるいは作り出されるたびに、その痛痒はますます激しいものになってゆくだろう、そしてまた新たな「理由」を探さざるを得なくなるだろう。結局のところ、「理由」を探し続ける運動は終わることはない。

 もしかしたら、その運動は小説が終わっても続けられるのかもしれない。というよりも、この小説に果たして終わりはあるのか。さらに問いを進めて、小説の終わりとは何か。あるいは―――そして、これが本質的な問いだが―――そもそも、小説とは何か。

 『別れる理由』という小説は、昭和四十三年から五十六年三月まで雑誌『群像』に連載されていた。まず、「町」と題された連作短編シリーズ(『群像』一九六八年一月-同年九月)で、次の九作の短編から成り、後にこれらすべて『ハッピネス』(一九七四年一月、講談社)に収録されることになる。「山へ登る話」「多角経営」(後に「小さな神様」に解題)「二度の訪問」「美わしき涙」(後に「美わしの涙」に改題)「あいびき」「ヨモツヒラサカ」(後に「よもつひらさか」に改題)「危険な関係」(後に「石遊び」に改題)「挨拶」(後に「モグラのような」に改題)「ある日、町を出て」(後に「ワラビ狩りに」改題)。当初の予定のうちでは、『別れる理由』は、これらの連作の一部として構想されていたが、「だんだんふくらんで」長編となった。 [2]

 

 

(…)『別れる理由』という長編小説は、単行本の第Ⅰ巻丸ごと、すなわち原稿用紙千枚以上ついやして、基本となる時制が数時間しか動かない。つまり一九六八年の晩夏あるいは初秋のある日の午後から夜にかけての前田永造の家のリビングルームでの永造と妻京子、さらに京子の友人山上絹子の三人の会話を中心に物語が進んで行く。しかしその間に、永造の死別した先妻陽子、彼らの間の息子啓一と娘光子、さらに京子の別れた夫伊丹や彼女がそこに残した息子康彦、そして京子と絹子の友人の会沢恵子とその夫のエピソードなどが、時制を交差して、語られて行く。つまり、作品世界の「今」、リアルタイムの話だと思うと、ふいに過去のエピソードが並置――しかもコロキュアルな形で――されたりしている。[3]

 

 

 この小説の前半が、永造と京子の夫婦を中心として進行してゆく。永造と京子は再婚しており、そこに死別した陽子との記憶や、京子が前の夫との子供(そして、ほとんど姿を現すことはないが)息子康彦という複雑な家庭の事情に加えて、彼らに関係する人物も複雑な家庭の事情を抱えており、物語が進むにしたがって複雑な関係はその複雑さの度合いを増してゆくだろう。我々が、『別れる理由』の前半を読んだときに感じるのは、そのような「現実」と呼ばれるもののどうしようもなさ、その複雑に絡み合った糸を解こうとするが、むしろ解こうとすればするほどより一層複雑になってしまうどうしようもなさである。では、そのように複雑に絡みあったものをどのように解けばいいのか。この瞬間、神話という大きな物語が要請されることになる。それは永造がアキレスの馬に生成変化することによって、その現実の複雑さを解消しようとする。しかし、果たせるかな、むしろ、それは、解消というよりは、新たな複雑に絡まってゆくしかないのではないか。この小説が1968年の学生運動から始まるのは象徴的であるのだ。その学生運動の失敗(あるいは、既にその前から?)と同時に遠近法が喪失して、全てが平面的なポストモダンの時代に突入することになる。『別れる理由』が常軌を失った運動を始めるのもそのような時代の突入と決して無関係ではない。「大きな物語」が不可能な時代に「大きな物語」を作り上げようとしてもそれは失敗が運命づけられているだろう(「白い粉」を使ってでもその神話的なオルギアを続けようとするがむなしい徒労に過ぎない)では、そのような「大きな物語」を作り上げることの失敗の後に、無数の「小さな物語」が散らばった空間を、しかし、何としても小説を書かなければならない時に、むしろ、その空間を「小さな物語」で満たすことによって複雑な関係を、複雑な関係のまま、あるいは、その複雑な関係を限界まで押し進めることによって、内部と外部が繋がってしまう瞬間、そんな瞬間をただひたすら目指して『別れる理由』は暴走を暴走のまま肯定することになる。それは、小説の登場人物であるはずの永造から作者である小島信夫に電話がかかってきたときに、「現実」と「虚構」あるいは、「内部」と「外部」が捩れ繋がってしまうのだが、小島信夫の存在する「現実」に永造が侵入するというよりは、作者である小島信夫が「虚構」の世界に侵入するのかもしれない。どちらとも取れるし、どちらとも取れないかもしれない、そう、この判断停止、どれが「現実」であり、どれが「虚構」であるのか、そして最初の問題に立ち帰ることになるが、小説とは何かという問題にも関わってくるだろう。しかし、その問いには答えられることはない、あるいは、最初から答える気はないのかもしれない。むしろ、その問題に何度も立ち帰りながらも、その問いははぐらかし続ける。何故なら、その問いにひとつの答えが与えられた時、それは小説に「別れ」を告げることになるだろう。つまり、「別れる理由」というのは、「別れられぬ理由」を確認してゆくことに他ならないのではないか。

 

 

 こういういい方は、大ゲサのようにきこえるかもしれないし、また、私という作者の不決断をあらわにするように受けとれるかもしれないが、この小説の長さは、一つには、「別れられぬ理由」がどうしたら「別れる理由」に近づくことができるか、のもどかしい足取りのせいなのである。[4]

 

 

 「この小説の長さは、一つには、『別れられぬ理由』がどうしたら『別れる理由』に近づくことができるか、のもどかしい足取りのせい」なのであれば、「別れる理由」の背後には「別れられぬ理由」が存在するのだろう。「別れる」という運動は、どうしようもなく「別れられぬ」ということを再認識してゆくことに他ならないのではないだろうか。小島信夫という作家は、『別れる理由』以降、より「現実」と「虚構」その境界を絶えず脱構築してゆくような長編、短編を数多く執筆することになるが、「現実」が小説(「虚構」)を規定するのではない、むしろ、「虚構」が「現実」を更新し続けるのだろう。

 

 

小島信夫長篇集成〈第4巻〉別れる理由〈1〉

小島信夫長篇集成〈第4巻〉別れる理由〈1〉

 

 

 

小島信夫長篇集成〈第5巻〉別れる理由〈2〉

小島信夫長篇集成〈第5巻〉別れる理由〈2〉

 

 

 

小島信夫長篇集成〈6〉別れる理由〈3〉

小島信夫長篇集成〈6〉別れる理由〈3〉

 

 

 

[1]芳川 泰久,2005,「巣穴と接続詞」『水声通信 No.2 (2005年12月号) 特集 小島信夫を再読する』,p.61

[2]柿谷浩一,2015,「解題」『小島信夫長篇集成〈4〉別れる理由〈1〉』,水声社,pp.663-664

[3]坪内祐三,2005,『「別れる理由」が気になって』,講談社,pp.40-41

[4]小島信夫,2015,『小島信夫長篇集成〈6〉別れる理由〈3〉』,水声社,p.622

「確認される死の中で」―――石原吉郎と安川奈緒

安川奈緒 石原吉郎

 

 

 石原吉郎と佐古純一郎の対談(『キリストはだれのために十字架にかかったか』)において、石原はこのような発言をしている。

 

 

石原 ひとりひとりで死ぬ機会を失うことは、人間にとって最も不幸なことだと思いますね。ひとりで死んだということは、最終的な救いになるとは思います。戦争の恐ろしいところは、十把ひとからげに人を殺し、ひとりの死すらも奪ってしまうことです。大量虐殺(ジェノサイド)は、ぼくには理解できない思想だな。体で覚えないと、わからないかもしれない……。シベリアで集団生活を強いられていたとき、仲間が続々と死んでいくわけです。そういう死に方だけはしたくないと思っていました。何がテコになるかというと、人間の姓名ですね。石原吉郎という人間がここで死んだということを、だれかに確認して欲しかったですね。それだけが、たいせつです。[1]

 

 

 大量虐殺、そしてその向こうにある戦争の恐ろしさを、「十把ひとからげに人を殺し、ひとりの死すらも奪ってしまうこと」であるとして、自身のシベリア抑留の体験の中で続々と仲間が死んでゆく中で、「テコ」(=「救い」)としての姓名であるとした。つまり、「石原吉郎という人間がここで死んだ」ということを確認する為に姓名は何よりも要請される。しかし、大量虐殺、あるいは戦争において、そのようなひとり/ひとりの姓名をなかったかのように扱われる。これは、大量虐殺や、戦争に限った話では決してない。例えば、大災害が起こった時に、テレビでも新聞でもネットでもなんでもよいがメディアに接して眼に映るのは犠牲者の数字であり、それによって亡くなったひとり/ひとりの姓名ではない。なるほど、確かに、何故、自分と関わりのない他人の姓名などいちいち知らされなくてはいけないのか、そんな遠くの他人に構っているほど暇ではないのだ、情報は素早く簡潔に、そう、時間は有限なのだから……このような言葉が聞こえてくるだろうし、その意見に反論することは難しい。何故なら、そのような世界に望む望まないに関わらず生きていかざるを得ないのだし、ひとり/ひとりの姓名をまるで初めから存在しなかったかのように扱うのに慣れ過ぎてしまっている。しかし、それでも、「それだけが、たいせつ」であるという言葉には、姓名が失われてしまう状況に対する、あるいはそれに意識的、無意識的に加担する我々に対する批評として機能することになる。

 その対談から数十年後、安川奈緒阿部和重中原昌也の対談で「911同時多発テロ」のビルが倒壊する映像を見て「歴史を見た」と言い合っているさまに「いつも怒りをもって思い出してしまう」と書きながら続ける。

 

 

 何よりもまず、この事件の映像を見る者は、そのビル内でわけのわからない数の人間がわけのわからないまま死んでゆく時間の映像を見ているのであって、「歴史の瞬間(!)の映像」を見ているのではないと判断することを放棄しているのに対して、次に、何らかの「決定的瞬間」と判断されうる映像を、「歴史」と取り違えることに対して、呆れ果てずにはいられない。(…)複数の人間が、後の視線からは「同時」と見なされうるときに死ぬこと、そして、その複数の死が最終的に一つの土地の名、一つの日付のもとに統括されること、これこそがどう考えても破廉恥なのだということを忘れることはできない。人はいいかげんな非-場で、てんでバラバラに死ぬべきだ。[2] 

 

 

 安川奈緒が問題にしているのは、「わけのわからない数の人間」が「わけのわからないまま死んでゆく」映像に「歴史の瞬間」を見たと錯誤することもさることながら、そもそも「複数の死」を「一つの土地の名」、「一つの日付」のもとに統括されることに対する「破廉恥さ」に対してであろう。「人はいいかげんな非-場で、てんでバラバラに死ぬべきだ」という記述が「人と人とが同じ空間に属すというフィクションを維持することができるのは、そしてその空間に属さない者に向けて生存の弁解が出来るのは、会話だけだ。それ以外の時には、誰一人同じ空間には属していないのだ」[3]と書き得た詩人においては、ひとり/ひとりそれぞれの固有の空間にいて、それゆえに「てんでバラバラに死ぬ」のであるし、そうでなければならないと言っているのではないだろうか。しかし、同一の空間に存在するのであると錯覚することによって、それを「一つの土地の名」や「一つの日付」のもとで統括することを可能にする。ここで、ひとり/ひとりの空間を、ひとり/ひとりの姓名と言い換えてもいいかもしれない。そして、この場所において石原吉郎安川奈緒は交差するのではないだろうか。

 では、そのような「破廉恥」な状況に対して、詩を書くという行為はどのような意味を持つのだろうか。石原吉郎が日本に帰国した後に詩を書き始めた理由を、詩という形式が「『混乱を混乱のままで』受けとめることのできる、ほとんど唯一の表現形式であった」[4]としてこのように続ける。

 

 

 (…)その時期の私には、詩という表現形式へ追いつめられたものが、他者へ伝達されることに大きな不安があったわけです。つまりその時期の私にとって、詩を書くということは、先ほどお話しした、牢獄の壁に姓名、名前を書きのこすという行為とほとんど同じであったと思います。たまたまそれを読んだ別の日本人がいたにしても、その名前が担った運命の重さというものはというよりも伝わらないのが本当です。にも拘わらず人は、さいごに辛うじて残せるものとして、その名前を書きのこす。これが、伝達ということの、いわば原点であると私は思います。[5]

 

 

 ここで、牢獄の壁に姓名、名前を書き遺すことと詩を書くという行為がイコールで結ばれることになる。詩を書くという「混乱を混乱のまま」(=錯乱)表現する形式で、「全く伝わらないかもしれない」という絶望的な賭け(=「命がけの飛躍」)が行われることになる。そして、この賭けは徹底的な「錯乱」のうちに行われることになる。ここで、「泣きたいやつ」という詩を分析することでそれを見てみることにしよう。

 

 

おれより泣きたいやつが

おれのなかにいて

自分の足首を自分の手で

しっかりつかまえて

はなさないのだ

おれよりも泣きたいやつが

おれのなかにいて

涙をこぼすのは

いつもおれだ

おれよりも泣きたいやつが

泣きもしないのに

おれが泣いても

どうもなりもせぬ

おれより泣きたいやつを

ぶって泣かそうと

ごろごろたたみを

ころげてはみるが

おいおい泣きだすのは

きまっておれだ

日はとっぷりと

軒先で昏(く)れ

おれははみでて

ころげおちる

泣きながら縁先を

ころげてはおちる

 

泣いてくれえ

泣いてくれえ

 

 

 

 この詩の奇妙さはこの「おれ」が二重に分裂しているからだろう。まず、「自分の足首を自分の手で/しっかりつかまえて/はなさないのだ」という部分がこの詩のなかで最も奇妙な印象を受ける場面ではないだろうか。この「自分の足首」あるいは「自分の手」は、誰の足首であり、手なのだろうか。この「自分の足首」と「自分の手」の「自分」を「おれより泣きたいやつ」にするのか、前の「自分」が「おれ」で、後者の「自分」を「おれより泣きたいやつ」にすればよいのか。しかし、普通にその後の「しっかりつかまえて/はなさないのだ」という言葉に注目してみれば、この「自分」が二つに分裂してゆく方を取るべきなのかもしれない。そのように「おれ」と「おれより泣きたいやつ」が分裂しているが、「おれより泣きたいやつ」が「おれ」の中にいるので、「おれ」=「おれより泣きたいやつ」であることを容易に認識することは可能だか、「やつ」という言葉に「おれ」との「ずれ」を意識せざるを得ないし、自分の内部にあるはずなのに外部に位置づけられるようなどうにもならない他者として存在せざるを得ないだろう。それは、石原吉郎の他の詩作品にも言えることだが、言葉の反復の形式は、差異を消滅させるよりは、絶えず差異を作りだしてゆくことになる。つまり、「おれより泣きたいやつ」が反復の形式において、その存在を明瞭にしてゆく作業に他ならない。そして「おれ」は「おれより泣きたいやつ」を「ぶって泣かそうと/ごろごろたたみを/ころげてはみるがおいおい泣き出すのは/きまっておれだ」なのであり、ほとんど錯乱的に「おれ」が泣き叫ぶのを尻目に「おれより泣きたいやつ」は黙ったまま何も言葉を発することはない。では、何故、この「おれより泣きたいやつ」がこの詩において必要なのか。

 これを解くために前の議論に戻ってみよう。大量虐殺、あるいは戦争において何よりも恐ろしいのは、姓名を奪われることであると石原吉郎は述べたが、逆に言えば、一人一人の死を死ぬことは肯定されうるのではないか、ということだ。ここにおいて、石原吉郎が自殺の問題に恐ろしいほど接近する瞬間だろう。

 

 

 自殺は敗北である。そのことにかんするかぎり、私は結論へためらわない。だが、敗北とはなにか、なににたいしての敗北かということになると、私に明確なものはなにもない。日本の降伏が決定した日、その日のうちに、いくたりかの人が私の周囲で、それが当然の義務であるかのように自決した。その人たちの図式には、いかんともしがたい事実として敗北がまずあり、なんのためらいもない行動がそれにつづいた。自殺そのものを敗北とする発想は、その人達にはなかったのである。自殺という表現を拒み、自決という言葉をえらんだその人たちにとって、それはあくまで自己決定の行為だったのである。私には、その人たちの発想に、どんなかたちでも立ち入る意志はない。[6]

 

 

 「自殺は敗北である」としながらも、その「敗北」自体をその場で解体してゆく記述において、むしろそこに死への傾斜を見てしまう。晩年における実生活上の錯乱と、村上一郎自死に衝撃を受けて行われる自傷行為。法医学的には「病死」となっていながらも、郷原宏が「それは明らかに自殺だった。自殺ということばが誤解をまねきやすいのであれば、自死といいかえてもよい。いずれにしろ、その死は自然に向こうからやってきたのではなく、詩人が自ら招きよせたもの」[7]と述べたのは、ある面では正しいだろう。というよりも、石原吉郎にとって、詩を書くという行為そのものが、「牢獄の壁に姓名、名前を書きのこす行為」と等価であり、自分自身に死を与え、それを確認してゆく行為に他ならないのではないか。しかし、私の死は、必ず誰かに確認される必要がある。私は、私だけでは死ぬことは不可能なのである。

 

 

 

 私の死は私にしか死ねない?違いますよね。死に行くときに、自分は、誰でもない何かとなって死んでいくのです。無限に、灰色のなかに溶けていくのです。永遠に。死の過程に、終わりはありません。ああ、私はついに「死に終えた」と言うことができるひとは、誰もいません。だから、私は死ねません。私は、私の死を死ねません。自分が死んだかどうかを確かめるのは「この私がいない世界」の他人なんです。[8]

 

 

 

 私の死を確認するもう一人の他人(+1)が私の死を死たらしめるのにはどうしても必要なのである。石原吉郎の詩作品に見える奇妙な対象との距離の取り方、あるいは反復によって「ずれ」が産出されることによって無限の隔たりとして認識されることになるのは、むしろこの距離こそが、死を死として確認させるために必要となる距離であったのならばどうだろうか。例えば、「牢獄の壁に姓名、名前を書きのこすという行為」が行われるときに、それを読むことになるもう一人を想定することになる。もっと言うならば、そのもう一人の位置に身を置きながら、同時に「牢獄の壁に姓名、名前」は書かれるのではないか。この二重の分裂のうちに、一方(言葉)が一方(体験)を追いかけるような関係になるが、その距離をゼロにすることはできない。そもそも、強制収容所という現実の前では、体験を体験として認識するときには、既にそれは体験としてではなくて、追体験というものにならざるを得ないだろう。

 

 

 ことばはたえまなくうしなわれる運命にある。と同時に、私たちは行為をもうしなう運命にあります。ことばをうしなうということは、いわば行為をうしなうことの象徴です。(…)失語の過程を追うのは、すでに回復していることばであることに、注意していただきたいと思います。これは、私たちのあいだで<追体験>とよばれている過程ですが、このばあいの<追体験>は、体験そのものをはるかに遠ざかった地点でかろうじて回復したことばが、そこまで漂流した曲折をあらためてたどりなおして、ことばの喪失の原点へ里がえりするかたちで行われます。そうしなければ、うしなわれた空間が永久に埋まらないからです。[9]

 

 

 「強制収容所の凄まじい現実の中で、疲労し衰弱しきっている時には、およそその現実を<体験>として受け止める主体なんぞ存在しようがない」[10]からであると述べるが、そもそも体験を体験として語ろうとする時に、言葉によってその体験を追跡しなくてはならないので、そこには必ずある遅れを伴うことになり、どんな体験も最終的には追体験という形を取らざるを得ないのではないだろうか。「うしなわれた空間が永久に埋まらないからです」という言葉には、それが「永久に埋まらない」ことを意識的、無意識的に知りながらも、その場所に絶えず戻ろうとする強迫反復のように思える。彼の詩における反復する形式が、反復が行われるたびに体験に近づいているようで逆に遠ざかってゆくしかないのだ。しかし、それでも自身の体験を語ろうとすることは不可能であることを了解しながらも、書こうとするときに、「出血によって出血そのものを救おうとする」[11]ような悪循環に絡み取られるしかないのではないか。ここに彼の作品に見られる体験とそれを語ることの奇妙な捩れが存在する。その捩れを解消させるために、より一層の錯乱とそれに伴う解体が必要とされるのではないだろうか。

 しかし、存在を解体してゆく錯乱の中で、炸裂するユーモアが石原吉郎の作品にありはしないか。「賭けとpoesie」というエッセイにおいて、賭ける者の情熱が放棄する者の情熱とまさに同じものであることが述べられる。この賭けを、彼の後期の中心概念となる「断念」と同一平面上で見てみたくなる。「賭けるとは、数多くのあるもののなかから最もよいものを選び出すことではない。というのは、その時、賭けるという行為自身の前に一切のものが沈黙するからである。賭けるもの、賭けられるもの、それによって失うであろうもの、獲得するであろうもの、それら一切は窮極的には賭けるという行為の前でその意味を失う」[12]のように、ある賭けが行われるときに、むしろその賭けるという行為そのものが意味を持ち始めるのである。余談だが、「断念」においても、「断念」そのものが意味を持ち始めることになりはしないか。その「断念」を「断念」するために、「貧しさ」の方向に行かなければならなかったのではないか。とにかく、この賭けが行われる瞬間に、あるいは賭けそのものがユーモアを持ってしまうと石原は言う。

 

 

 もちろん、賭けるという行為のなかで、そのような切迫した壁のような危機があるだけではない。そこにはおそらく、僕たちが一挙に理解し納得しきれないほどのボリュームを持つユーモアがあるはずである。理性によってその生をささえて行かなければならないはずの人間が、しばしば賭けによらなければその危機を超克できないということ自体が、ユーモアをもってしか考えられないことなのだ。詩作の中にある「あそび」の要素は、おそらくこのようなユーモアと、どこかでつながっているのかもしれない。[13]

 

 

 石原吉郎はこれの他にもユーモアについて様々なエッセイで語っている。彼にとってこのユーモアというのは無視できないものであり、恐らく作品にとっても不可欠な存在であろう。安川奈緒石原吉郎を評するときに、「偉大なユーモア」(これは彼のエッセイのタイトルだが)の存在に注目していた。[14]そして、このユーモアは詩を書くという賭けにおいて、両者が再び奇妙に近づくことになる。それは、どういうことか。そもそも、書くということが、相手に完全に伝達されることを夢見るが、しかし、そこには絶えず「ずれ」や「差異」を生み出して送り返され、伝達の不可能性を確認してゆくことに他ならないのではないだろうか。しかし、むしろこの「交流」を目指しながらも、むしろそのたびごとに不可知性を認識してゆく状況を「テコ」にして、ひとり/ひとりの孤独の確信においてそれを「共有=分割(パルタージュ)」することによって、絶対的な孤独を交流させる。これは、ある意味で石原吉郎(そして安川奈緒)の「共同体」を考えることにもつながってくるように思える。

 

 

 

(…)テクストが読者の解釈に委ねられ、作者から発せられたメッセージの到着が無限に延期され続けるとしたら、作者と読者との関係、読者同士の関係は「われわれ」に融合する神秘的な合一では決してあり得ない。(…)言葉という封筒に入ったメッセージは常に誤配にさらされ、送り手である作者も受け手である読者もその誤配の可能性を排除できない。というよりも、そもそも「真のメッセージ」というものが本当に封筒に入っているのかどうか、存在するかどうかすらもわからないのだ。[15]

 

 

 

 むしろ、この「差異」や「ずれ」あるいは、メッセージの無限の延期や、誤配可能性が書くという絶対的な孤独(「単独者」と言い換えてもよいが)や、繋がることの不可能性の前における絶望的な賭けの前で、敢えてそれがユーモアに見えてしまうこと、そしてそのユーモアよって、逆説的にひとり/ひとりがひとりひとりとして繋がることが出来る糸口が見つかるのではないだろうか。

 最後に、安川奈緒の詩を引用して終わろうと思う。石原吉郎と同じように、絶対的な孤独を交流させることによって繋がろうとした詩人の炸裂するユーモア、目を覆いたくなる悲惨さに。

 

 

警察と駅員をしんとさせる

圧倒的なヒステリーだったけれども

肩をがくがくと揺らすと

「この高み!」

などと言うから殴ってやった

 

「ひとつでもあたらしいことを言う前に消えてしまえ」

 

他人の部屋の前で

「おまえのせいで わたしは死ぬ」

と倒れる

そのとき

下水道に横たわっていた男のほうは

助かりたくて

オレンジの花に触りつづけていた

 

(「今夜、すべてのメニューを」)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[1]石原吉郎,1978,『一期一会の海』,日本基督教団出版局,p.225

[2]安川奈緒,2009,「イマジネール/都市のざわめき」『現代詩手帖2009年5月号』,思潮社,p.114

[3]安川奈緒,2009,「詩の存在論的倨傲について」『現代詩手帖2009年12月号』,思潮社,pp.72-73

[4]石原吉郎,1976,『断念の海から』,日本基督教団出版局,p.98

[5]石原,同上,pp.98-99

[6]石原吉郎,1970,『日常への強制』,構造社,p.220

[7]郷原宏,1978,「岸辺のない海」『現代詩読本 石原吉郎』,思潮社,p.130

[8]佐々木中,2015,『仝: selected lectures 2009-2014』,河出書房,p.59

[9]石原吉郎,2000,『海を流れる河―石原吉郎評論集』,同時代社,pp.54-55

[10]石原吉郎,1976,『断念の海から』,日本基督教団出版局,p.30

[11]石原吉郎,2000,『海を流れる河―石原吉郎評論集』,同時代社,p.63

[12]石原,同上,p.74

[13]石原,同上,pp.76-77

[14]安川奈緒,2009,「Me, Not my experience」『現代詩手帖2009年4月号』,思潮社,p.185

[15]福島勲,2011,『バタイユと文学空間』,水声社,p.82