太宰治『ロマネスク』―――弁証法としての「ロマネスク」

 

 

(これも上手くまとまらなくて破棄したもの)

 

 

 

 

0.はじめに

 

 

 『ロマネスク』は、「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」「嘘の三郎」という三つの小篇によって構成されている。「仙術太郎」は、神梛木村の庄屋の息子である太郎は、かつて奇跡を起こして<神童>と呼ばれたほどであったが、いつしか村の人々から<なまけもの>、<阿呆様>と疎まれるようになる。やがて、蔵の中にあった仙術の本から術を学び、自在に変化する力を得る。そんなある日、意中の娘に好まれるような美男子に変身しようとしたが、仙術の本が古すぎたため不本意な形で術が成功し、仙術の法力も失って村を後にすることになる。「喧嘩次郎兵衛」は、東海道三島の酒造業を営む鹿間屋(しかまや)の次男である次郎兵衛は、<是々非々>の態度によって三島の宿の人たちに<ならずもの>と呼ばれて不潔がられていた。ある日、彼は、<居酒屋のなかから嘲弄の声>を聞いて、喧嘩の修業を始めることになる。修行の成果によって、人々から畏れられるほどになり、かねてから好いていた娘の窮地を救い、その娘を嫁にもらうことになる。しかし、ほんの戯れのつもりから誤って娘を殺してしまい、牢屋に入れられることになる。「嘘の三郎」は、江戸深川の男やもめの支那宗教学者の息子である三郎は、父の吝嗇によって、<嘘の花>を芽生えさせることになる。三郎は、様々な罪を犯しつつも、その罪悪感からいよいよ<嘘>に磨きがかかってゆく。しかし、父親の死に<嘘の末路>を発見した彼は、<嘘のない生活>を志そうとするが、<嘘のない生活>を目指した末に見つかったのは<無意志無感動の痴呆の態度>であり、それすらも疑わしいものになる。そんな気持ちを紛らわせようと、朝から居酒屋に行くと、先客に太郎、次郎兵衛がおり、それぞれが半生を語り合ううちに、高揚した三郎は<有頂天こそ嘘の結晶>という認識から自制心を働かせようとするも酔いのせいで逆にやけくそになりこんな言葉を吐いてしまう。<私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらに於いて木葉の如く軽い。>

 そもそも、題名にもなっている「ロマネスク」romanesqueとは何なのか。安藤宏(1990)が「荒唐無稽」に「ロマネスク」とルビを振ったが、そもそも「『小説』を意味する『ロマン(roman)』から派生した『romanesque』という単語は、フランス語では『荒唐無稽』『夢見がち』『気まぐれな』などの意味で日常的につかわれていた」[1]のであり、そこには妥当性がある。しかし、フランス語の意味での「荒唐無稽」だけではなくて、建築用語・美術用語としての「ロマネスク」の意味合いもこの作品を捉えるのに有効なのかもしれない。では、後者の「ロマネスク」はどのようなものなのか。

 

 

 

ロマネスクとは、フランス語のロマン(roman)の英語読みである。この言葉を最初に用いたのは、フランスの考古学者ジェルヴィル(Charles de Gerville)である。一八一八年、彼は、友人オギュスト・ル・プレヴォとの書簡集の中で、一一-一二世紀の建築について、「われわれの粗野な祖先により、時がたつ間に、不自然にされ、堕落させられた、重々しく粗野なローマ風様式(opus romanum)」と語った。この堕落し、重々しくて粗野なローマ風様式という言葉が、ロマン芸術〔仏 L’art roma・英 Romanesque art・伊Art romanico〕の語源となったのである。[2]

 

 

 

 「ロマネスク」という言葉を生み出したド・ジェルヴィル(1770~1853)は、この言葉に「軽蔑的な」、「価値の低いもの」という響きを込めることになる。あるいは、ジェルヴィルと同様に「ロマネスク」の言葉を早い段階で使い出したウィリアム・ガン(1750~1841)の、ローマ人は自らを「ロマーノ(romano)」と自称するが、長い間、ローマに暮らしていても、出自が定かではないものを「ロマネスコ(romanesco)」という烙印を押されることになった[3]、という言葉を紹介しながら『ロマネスクの美術革命』の著者である金沢百枝は続ける。

 

 

(…)イタリア語の「~風(~esco)」という語尾を、「ピクチャレスク(Pocturesque)」のように英語になじみのある「~esque」という語尾に変え、この建築様式を「ロマネスク(Romanesque)」と命名した。(…)そこには「ローマ建築のふりをしているが出自が定かでない建築」といったニュアンスが含まれている。もっと露骨にいえば、「ローマもどき」となるだろうか。[4]

 

 

 「ロマネスク」という言葉に、「ローマもどき」ということば意味が合意されているとすれば、この作品に「…もどき」としての「紛い物/偽物」、言葉を切り詰めれば作品の重要な要素である「嘘」が題名から既に暗示されていることになる。あるいは、「紛い物/偽物」という意味合いが、この作品が「むかし」という説話的な語り口を持ちながらも、この三つの小篇が太宰治の創作であることから、「説話もどき」の作品であるという事実にも響きあっている。フランス語の「ロマネスク」(=「荒唐無稽」)と英語の「ロマネスク」(=「紛い物/偽物」)として、もしかしたら両方の意味合いを題名に付与しているのではないだろうか。その内容はもちろん、(一見すると)それぞれバラバラの時間と場所を持って繋がりを持たない三つの小篇を一つの作品として提示するその構成の「荒唐無稽」さと、三つの小篇を一つの作品として捉えようとするときにロマネスク建築のように文字通り入り組んだ構造が姿を現すその理由からではないかと思うのだ。

 この作品は「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」という作品に、「嘘の三郎」という作品を加えて改稿・統合するという二段階の手順を踏んで成立している。それゆえに、最後に付け加えられた「統合」を目的としている「嘘の三郎」から逆算することによって作品を分析するのが『ロマネスク』論では主流であるように見え、それはある程度の正当な根拠を持つだろう。しかし、それゆえに、「嘘の三郎」に大きなウェイトを占め、何故太宰治がこの三篇を一つの作品として提示したのかという問題に対応できていないのではないか。本論で目的とするのは、『ロマネスク』を構成している「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」「嘘の三郎」三篇をより連続した発展過程(=「弁証法」)と捉えて、そのプロセスを検討してゆこうと思う。

 

 

1.作品の成立情況

 

 

 『ロマネスク』は、昭和9年12月に雑誌『青い花』に掲載された。そして、『青い花』は創刊号のみで廃刊に至ることになる。しかし、『ロマネスク』を『青い花』と名付けられた同人雑誌に発表することは太宰にとって特別な意味合いを持っていた。そのことは「この雑誌(『青い花』)は人にすすめられて出したと書いてあるが実際は太宰治君自身が発起して、非常な意気込みで人を勧誘してまはつた」[5]という井伏鱒二の「解説」からも分かるだろう。『青い花』は、後に昭和10年5月に「日本浪漫派」に合流することになる。西田りか(2001)が言うように「理性・精神と、事実としての存在(感情)という二項対立を、対立ではなく錯綜するものと見、その錯綜のただ中に無限と有限の融和の実現をにらみ、その上で感情に重きを置くというドイツロマン主義[6]としての「青い花」がある。むしろ、事実/存在、無限/有限の融和(=止揚)としての(ドイツ)ロマン主義の運動は、そのままこの作品の弁証法的運動と一致する。

作品の同時代的な批評として、浅見淵尾崎一雄がいるが、浅見淵の「荒唐無稽の小説」であるという評価は後にこの作品を論じる際にしばしばよく用いられるようになる。[7]しかし、ここで問題にしたいのは尾崎一雄であり、そもそも尾崎一雄が、太宰治を文壇で話題にした最初の人であり、『早稲田文学』誌上での絶賛が「新人たちの間に相当な反響」[8]を呼び起こすことになった。

 尾崎一雄は、『ロマネスク』の読後感を「大変面白かった」としながらも「慢心の藝術」[9]であるとしたのは、確かに慧眼を持っていると言わざるをえない。あるいは、太宰治自身が後年『ロマネスク』についてこのような言葉で「註釈」している。

 

 

「思い出」など、読んで面白いのではないでしょうか。きっと、あなたは、大笑いしますよ。それでいいのです。「ロマネスク」なども、滑稽な出鱈目に満ち満ちていますが、これは、すこし、すさんでいますから、あまり、おすすめできません。[10]

 

 

 井伏鱒二の「解説」にも『ロマネスク』に『思い出』を挙げて、「『ロマネスク』は、力作といふ点でも、『思ひ出』に匹敵する。詩情が底光りを発してゐる」[11]という評価を下している。作者本人や井伏鱒二の言葉の通りに、『ロマネスク』は『思ひ出』と一緒に読まなければならないのかもしれない。それは、「仙術太郎」における「津軽」という場所の描かれ方に注意を向けることに他ならない。しかし、ここで問題にしたいのは、わざわざ『青い花』という同人雑誌を発行してまで発表しようとした自信作でもあった『ロマネスク』が後年、作者自ら「すこし、すさんでいますから、あまり、おすすめできません」という評価への変化である。

 結論から言えば、「慢心」という穏やかではない言葉や、「すさんでいます」という言葉は、これから分析しようと思う内実に関わってくるのではないかと思うのだ。

 

 

2.作品の分析

 

 

 『ロマネスク』の作品分析に大きな転機になったのは、安藤宏の「太宰治における『物語』と『私』」(平2・10「国語と国文学」)と、山崎正純の「太宰治における<通俗性>の問題」(平6・7「昭和文学研究」29)であろう。[12]安藤の『ロマネスク』論は、『ロマネスク』を、一種の「小説家」論と見なして、この作品が二段階によって成立した事情から最後に成立して物語の「統合」を担うことになる「嘘の三郎」に大きなウェイトを置き、如何にして「嘘の三郎」(=「私」)が小説家として生成されていったのかというプロセスを分析する。山崎正純(1994)は、当時の文壇の状況を意識しながら「左傾作家の大量転向以降到来した文芸復興期の、思想的無風状態に対峙した太宰が、氾濫する転向小説の私小説的偏向を横に睨みながら、主体再確立模索の過程で到達した、自我の臨界点」[13]として『ロマネスク』を位置づけ、「ロマネスク」に「俗物的」とルビを振ることによって、太郎も次郎兵衛も社会の言説やコードから外れてしまった(しかし、それ自体も既に社会的に与えられている)存在であるがゆえに「語りえない存在」(=「俗物的」)と称し、最後の三郎によって意味/無意味を超越した非-意味としての「ただの言葉の織りなす人間への理解」[14](=「芸術家宣言」)へ至ることになる、としている。

 安藤も山崎の論も、やはり「嘘の三郎」を『ロマネスク』という作品の軸に置いて、どちらも一種の「作家論」として「私」(=「太宰治」)の主体再確立としての作品として読解されることになる。この作品によって太宰が文壇に認知されることになった事実や、あるいは『ロマネスク』を語るときに『思い出』と並んで挙げられることから、作家のパーソナルな部分からの読解がなされてしまうのは、最初の本格的な『ロマネスク』論である塚越和夫の「『ロマネスク』論」(1977)からほとんど変わっていないように思える。もちろん、そのような読解に十分な根拠を持つ上に、作家本人がそのような読解に誘導している部分も確かにある。例えば、作品内作品として「人間万事嘘は誠」という三郎が書いた小説が登場するが、わざわざこの小説を「三郎の私小説」として定義してみせ、最後において「三郎」=「作品の作者」というメタフィクションを匂わせるような記述で作品が閉じられることからも、「三郎」=「太宰治」の自画像という等式が自然と形成されてしまうのも無理はないのである。

 なるほど、では、これまでの作品論が『ロマネスク』をそのような作家の自画像ないし作家の主体再確立として作品を分析する妥当性があるとして、しかし、それでも「嘘の三郎」だけを特権化してしまい、残りの二つ「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」が後景に退いてしまうのに問題が残る。むしろ、「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」「嘘の三郎」をひとつひとつの断片的な物語として読むのではなくて、より連続的なひとつの運動として見るべきである。つまり、「ロマネスク」という言葉を、「荒唐無稽」、「通俗性」ではなくて、むしろ「ロマネスク建築」のように上昇(止揚)してゆく「運動」(=「弁証法」)の別名として捉えてみたらどうであろうか。

 三つの小篇は、ある規則的な運動によって構成されている。語りだしの形式として、「むかし」、舞台となる場所、父親、という順の語り出しは三つの物語に共通している[15]。あるいはそれぞれの物語が「誇張→突出→逸脱」[16]の構造を反復することになる。例えば、「仙術太郎」で言えば、<二時間ほどは眼をつぶって眠ったふり>をするほどのものぐさ(誇張)→三歳の時に一人で山歩きをして、あるいは飢餓の折に直訴によって村の危機を救う(突出)→仙術の修行をして様々な動物に変身する術を得て、娘に惚れられるように変身しようとしたが、天平時代の<美男子>の姿になり元に戻らなくなる(逸脱)「喧嘩次郎兵衛」は、喧嘩の修業の結果、<風貌はいよいよどっしりとして鈍重になり、首を左か右へねじむけてしまうのにさえ一分間かかるほど>になる(誇張)→その風貌によって火消したちからの信頼を得るのだが、逆に喧嘩をする機会を失ってしまう(突出)→そして、意中の娘を花嫁にするのだが<じゃれてやってみせた>ことで誤って殺してしまい、牢屋に入ることになる(逸脱)。「嘘の三郎」は、「嘘」それ自体が「現実」の誇張の他ならず(誇張)→代筆や小説を書くことによって名前が知れ渡ることになる(突出)→しかし、父親の死をきっかけとして<嘘のない生活>を目指すが、それが<無意志無感動の痴呆の態度>であることを知り、それすらも疑わしいものになる(逸脱)。「荒唐無稽」に別々の物語が別々に存在しているように見えるが、実はある規則に沿った構造を持っておりそれぞれの作品の同一性・連続性を担保している。それでは、そのような構造的に同一の規則を持ったこれらの三つの小篇はどのような運動をしているのか。

 ここで、この三つの小篇の連続した運動(=弁証法)を記述するに当たって「即自」、「対他」、「対自」というヘーゲルの用語を使うことで見通しをよくすることが出来る。

 

 

 (…)ヘーゲルは、「それに則して」an ihm(an ihe etc.)という言い方をしている。従って、即自 an sichと言えば、自分が自分に直接的に接していること、つまり、他との接触を、その接触のきわどい現場でたちきって、単独性を保持しているあり方である。だから即自的なものはすぐさま、対他 für anderes となって他に対してしまう。この「他に対する」という関係の局面から、自己を回復するには、一度、自己を他に照らし合わせて自覚する必要があるが、こうして自己の単独性を回復したものが、対自 für sichである。[17]

 

 

 例えば、「即自」、「対他」、「対自」を子供の成長過程として考えてみると、「即自」は赤ん坊のように「他者」(「社会」と言い換えてよい)との交渉がない自足した世界である。それは、彼が望めばすべてが手に入るような居心地の良い世界なのかもしれない。そんな彼も成長すれば、嫌でも「他者」と接触しなければならないのだろう。「即自」的な居心地の良い世界から切り離されて「他者」(「社会」)に向き合わざるを得なくなる。しかし、それは同時に自己の自立性を切り崩すことになるが、「他者」から「自己」を見返すことによって自己を取り戻そうとする。これが、「対自」である。「他者」(「社会」)の中の自分を自覚して、「自分」が何者であるかという「自覚」と「自立」の段階である。

 このように見て行くと、「仙術太郎」の始まりが、太郎の「赤ん坊」の描写であることは何ら不思議なことはない。「仙術太郎」という物語が、三篇の中で最もお伽噺じみて、空想的であり、三篇の中で唯一架空の村を舞台にしている(もしくは「神梛木村」という名前にも注意を向けるべきだ)。あるいは、<津軽>という故郷が太宰治にとってどのような意味を持っていたのか、まさにそこに幼年期を逆行させてみせた『思ひ出』との関連性を見出すことが出来る。そのような「理想郷」において、太郎は「鷲になって、蔵の窓から翼をひろげて飛びあがり、心ゆくまで大空を逍遥し」、「蛇になって、蔵の床下にしのびいり蜘蛛の巣をさけながら、ひやひやした日蔭の草を腹のうろこで踏みわけ踏みわけして歩いた」[18]それが可能だったのである。

 

 

 太郎は母者人の乳房にもみずからすすんでしゃぶりつくようなことはなく、母者人のふところの中にいて口をたいぎそうにあけたまま乳房の口への接触をいつまででも待っていた。張子の虎をあてがわれてもそれをいじくりまわすことはなく、ゆらゆら動く虎の頭を退屈そうに眺めているだけであった。朝、眼をさましてからもあわてて寝床から這はい出すようなことはなく、二時間ほどは眼をつぶって眠ったふりをしているのである。かるがるしきからだの仕草をきらう精神を持っていたのであった。[19]

 

 

  太郎は赤ん坊のような「即自」的な彼だけの世界(=「理想郷」)に閉じこもることになる。それは、身近な「他者」としての父親との徹底的なディスコミュニケーションや、<水のなかにはいっても濡れないものはなんじゃろ>という<なぞなぞ>の答えである<影>のようにしか彼の「外部」に広がる世界を認識することが出来ない。それゆえに「外部」に広がる世界を「面白くない」と感じ、「内部」の世界に閉じこもるのである。そんな彼も、<油屋の娘>に恋をして、彼女に好かれるような美男子に仙術の力を使って変身しようとするが、「他者」(「社会」)との契機を持ちえなかったがゆえに、天平時代の<美男子>という下ぶくれの姿になり、内部から崩壊する。そして、娘という「対他」的な存在を知ってしまったからには、「即自」的な状態(=法力)も失って「理想郷」からも出て行かざるを得なくなる。

 「喧嘩次郎兵衛」においては、むしろ「即自」的な状態から「対他」的な状態に移行した世界が広がっている。次郎兵衛は<是々非々>の態度を取って三島の人たちからならず者扱いされてはいるが、この<是々非々>というのは、ある意味では、自分を他者の位置に置いて自分を見返すことが出来ないがゆえに、そのような態度を取ってしまうのではないか。

 

 

 (…)彼(次郎兵衛)はいわば鏡を失ったナルシストであり、彼の根本的な本質(潔癖な倫理性)自体が根源的に自己と現実との弁証法的な相互確認の契機を奪い去っていると言わざるをえないだろう。なぜなら、ありたい自己=見られたい自己を現実の中で生成・確認するためには、否定的要素を含みつつも、ある堅固さを伴った現実世界の存在が必要であるにもかかわらず、現実世界は常に次郎兵衛を迂回して行くにすぎないからである。[20]

 

 

 

 「鏡を失ったナルシスト」はそのまま「対自」的な契機を失っていることになるだろう。むしろ、次郎兵衛は「他者」(「社会」)の中で自分を見返す能力を持っていないがゆえに、自立性を確保できずに状況に流されてゆくしかないのだ。恐らく、この「喧嘩次郎兵衛」の悲劇性はそこに存在する。彼は、父親に反発を覚えながらも、父親の望みどおりに火消しとなり、社会的地位を得ることになる。しかし、これは、彼が自らの判断でそうなったというよりは、場当たり的に流されてそうなったに過ぎない。それゆえに、彼は、<きょとん>と呆然とするするしかないのである。

 

 

 ふたたびのれんをはじいて外へ出てみると、娘はいなくていっそうさかんな雨脚と、押し合いへし合いしながら走って通るひとの流れとだけであった。よう、よう、よう、ようと居酒屋のなかから嘲弄の声が聞えた。六七人のならずものの声なのである。番傘を右手にささげ持ちながら次郎兵衛は考える。あああ。喧嘩の上手になりたいな。人間、こんな莫迦ばかげた目にあったときには理窟もくそもないものだ。人に触れたら、人を斬る。馬に触れたら、馬を斬る。それがよいのだ。その日から三年のあいだ次郎兵衛はこっそり喧嘩の修行をした。[21]

 

 

 「よう、よう、よう、ようと居酒屋のなかから嘲弄の声が聞えた。六七人のならずものの声なのである」という出来事から、次郎兵衛は喧嘩の修業を始めることになる。だが、この「居酒屋のなかからの嘲弄の声」は、確かにその声が届いているのだが、「六七人のならずものの声」のようにぼんやりしたものとしか彼には感じられない。つまり、「嘲弄の声」を「社会」からのメッセージだとすれば、自分を「社会」の中で見返す契機を失っている次郎兵衛にとって、自分が何を求められているのかを上手く認識できない。それゆえに、本来の目的(=「喧嘩」)は延期され続けて、自分の意志とは関係なく担ぎ上げられてゆく。そして、最後まで自分を見つめ返すことが出来なかった男は、力の加減(=「己を知ること」)も考えずに花嫁を殺してしまうことになる。

 

 

岩に囁ささやく

頬をあからめつつ

おれは強いのだよ

岩は答えなかった[22]

 

 

 

 「対自」的な契機を得ていれば岩は「あなたは強いのだ」と答えていなければならなかったのではないだろうか。

「嘘の三郎」は、「対他」的な状態から「対自」的な状態に移行した世界から始まることになる。それゆえに、彼は、「嘘」を上手く操ることが出来る。なぜならば、「嘘」は「他者」の視線から自分を見返すときに初めて成立するものだからである。あるいは、彼が殺人を犯した時に、最初は「なんともなかった」[23]がだんだんと「犯罪の思い出が三郎を苦しめはじめる」[24]ことになるだろう。そして、それゆえ一層、「対自」的な意識(=「嘘」)を鋭くしてゆくことになる。

 もしくは、他の二篇の登場人物たちとの父親との関係を考えてみるとよいだろう。太郎は父親とそもそもディスコミュニケーションであり、次郎兵衛は反抗を覚えながらも結局のところ父親の望みどおりの場所に落ち着いてしまう。前者の二人と違って、三郎は、父親の文字通りの死と遺書によって父親の自分への愛情を知ることになる。そして、一度は、父親の死をきっかけに<嘘のない生活>を目指そうとするが、やがて、自分の意志で再び<嘘>を選び取って「自立」するのである。

 最後の場面において、居酒屋で出会うそれぞれの主人公たちは、自分たちの話をし始める。ここで、三郎の話を、次郎兵衛は「おれにはどうも判らんじゃ」[25]と言って居眠りしてしまうが、太郎は興味深く聞いている。ここで、確認できるのは太郎と三郎の同質性、太郎は三郎の過去の姿であり、三郎は太郎の未来である。

 

 

 私たちは芸術家だ。そういう嘘を言ってしまってから、いよいよ嘘に熱が加って来たのであった。私たち三人は兄弟だ。きょうここで逢ったからには、死ぬるとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。嘘の三郎の嘘の火焔はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらに於いて木葉の如く軽い。[26]

 

 

 『ロマネスク』という物語が、このように「当初<語り手>が一人で語っていたはずのこの『昔話』が実はいつのまにか三郎と二人の二重奏のかたちで語っている」[27]というメタフィクションに変質することになる。この円環的な形式において物語の終わりは、新たな弁証法の始まりでもある。

 最後になったが、「私たちは芸術家だ…私は芸術家だ…私たちは芸術家だ」という三回の反復と、「私たちは芸術家だ」に切断線を入れることになる「私は芸術家だ」という「私たち…」に折りたたまれた「私は…」という書く者/書かれる者の不穏な暴力性の発露に、尾崎一雄は、そこに「慢心」を見て、太宰が後に「すさんでいます」という自己評価を下すことになるのかもしれない。花田俊典(2005)の「太宰治弁証法」で述べるような太宰の作品に内在する弁証法的な運動に孕む問題なのかもしれないが、ここでは指摘するにとどめて論を終えるとする。

 

[1] 金沢百枝,2015,『ロマネスクの美術革命』,新潮社,p.38

[2] 馬杉宗夫,2001,『ロマネスクの美術』,八坂書房,p.42

[3] 金沢,同上,p.36

[4] 金沢,同上

[5] 井伏鱒二,1989,『太宰治』,筑摩書房,p.194

[6]  西田りか,2001,「『ロマネスク』――『ロマネスク』と『青い花』をめぐって」『国文学解釈と鑑賞』第66巻4号,至文堂,p.114

[7] 野口尚志,2007,「太宰治『ロマネスク』論--『嘘』による<芸術>の夢想」『筑波大学日本文学会近代部会』12月号,p.107

[8] 井伏鱒二,同上,p.168

[9]尾崎一雄,1983,『尾崎一雄全集』,筑摩書房,p.34

[10] 太宰治,2002,『もの思う葦』,新潮社,p.106

[11] 井伏鱒二,同上,p.195

[12] 神谷忠孝, 安藤宏 編,1995,『太宰治全作品研究事典』,勉誠社,p.302

[13]山崎正純,1998,『転形期の太宰治』,洋々社,p.207

[14] 山崎,同上,p.217

[15]野口尚志,2007,「太宰治 『ロマネスク』論--『嘘」』による< 芸術> の夢想」『稿本近代文学』12号,p.109

[16]安藤宏,1990,「太宰治における『物語』と『私』」『国語と国文学』10月号,p.65

[17]ローベルト・ハイス 加藤尚武訳,1970,『弁証法の本質と諸形態』,未来社,p.280-281

[18] 太宰治,2005,『晩年』,新潮社,p.319

[19] 太宰治,同上,p.312-123

[20]服部康喜,2001,『終末への序章―太宰治論』,日本図書センター,p.54-55

[21]太宰治,同上,p.325

[22] 同上,p.333

[23] 同上,p.336

[24] 同上

[25] 同上,p.334

[26] 同上,p.344-345

[27] 田中実,1997,『読みのアナーキーを超えて―いのちと文学』,右文書院,p.177

太宰治「道化の華」―――「復讐」と分裂化する「現実」

 

 

 (注:上手く書けなくて廃棄したもの)

 

 

 

 

 「道化の華」という作品をどこから論じ始めればよいか。この困難さの理由の一つとして、作品が、判断を停止して宙吊りの状態で放棄されているような印象を受けるからではないか。後から見ていくが、構成する特異な作品構造がそのような宙づり状態を作り出すのではないかと思う。内容の面では、この物語が、「自殺」の「中断」(=「失敗」)から始まり―――その「終わり」(=「自殺」)は暗示されるだけで最終的に明示されることはない―――「富士」と「断崖」の間、「富士」の方は「不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたっては澱み、澱んではまたゆるゆると流れて」、「断崖」の方は、「ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆらうごいていた」この対比の中で主人公は立ち尽くしたまま文字通り空間的な「宙吊り」の位置に至ることによってこの作品は終わる。そのような中途で放棄される物語が作品構造と合わさることによって、この作品が何を伝えようとしているのか、あるいは、何を伝えないようにしているのか、迷路の奥深くに誘い込まれてゆくような感覚を覚える。もしかしたら、このように掴めたと思ったらすり抜けて行ってしまうような、近づけば近づくほど遠ざかってゆくような感覚は、これから読む「復讐」に関係があるかもしれない。

 

 

 僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気を拔きにして答えろ。どっちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いている。このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思はせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐。」

 

 

 

 <僕>は「なぜ小説を書くのだろう」という思わせぶりな問いかけを不意に発する。その答えに、小説を書く意味を「新進作家としての栄光」と「金」とを上げて、「どっちも欲しい。ほしくてならぬと」と言った後にすぐに「しらじらしい嘘」として否定する。そして、再び「なぜ小説を書くのだろう」という問いかけをする。結論から言うと、ここで行われている否定と反復の運動は、最後の「復讐」という言葉を際立たせる修辞的な効果を狙ったのも確かだろう。だが、むしろこの否定と反復の運動によってこそ「復讐」にたどり着くことができるとしたらどうだろうか。もちろん、この「復讐」という言葉さえも「仮」のものではあるし、この段落のすぐ前に、「ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな」という言葉も出てくるのだから、むしろ、この「復讐」さえも疑わしいものとして立ち現われることになる。というよりも、その時、つまり否定と反復の運動によって「復讐」が無意味化するとき、本当の意味で「復讐」が達成されるのかもしれないのではないだろうか。この作品において太宰治がどのように「復讐」を達成したのか、その「復讐」の方法を吟味したいと思う。

 まず、簡単にこの作品が発表された当時の状況をまず整理しておこうと思う。「道化の華」は、昭和10年5月に『日本浪漫派』に掲載された。この三か月前に「逆行」という作品が『文芸』に発表されている。この年の八月、第一回芥川賞の選考が行われて、「逆行」が候補作品、「道化の華」が参考作品になったが、次席であった。ちなみに、この年の第一回芥川賞を受賞したのは、石川達三の『蒼氓』である。川端康成の選評(「――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」)に対する反論として、「川端康成へ」という文章がある。そこで、この「道化の華」の成立過程を作者自身が語っている。

 

 

 「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平に読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。(…)元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。

 

 

 太宰治が言うには、「道化の華」は、最初二十四歳の時に書いた「海」という作品をリテイクさせた作品である。原型になったとされる「海」は残っていないが、「断崖の錯覚」(昭和9・4『文化公論』)に関係があるのではないかと言われている。ちなみに、「道化の華」において三度印象的に反復される「美しい感情を以て、人は、悪い文学をつくる」という言葉は武者小路実光・小西茂也訳アンドレジッドの『ドストエフスキー』(日向堂、昭和5)の訳文に基づいており、太宰治もこれを読んでいることが確認されている。だからであろうか、「川端康成へ」の後半において、「その、冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情」という言葉からもジッドの『ドストエフスキー』を読んだ影響をうかがわせる。

 この作品は、第一創作集『晩年』(昭11・6 砂子屋書房)に収録されているが、後に『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』(昭12・6 新潮社)に再録されることになる。「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」を合わせて『虚構の彷徨』三部作と呼び、それぞれに「真、善、美」の主題が込められていると言われている。ちなみに、大庭葉蔵は『人間失格』の主人公と同姓同名である。

この作品がじっさいに実際にあった太宰治の「心中未遂事件」を題材にしているのは周知の事実である。ミニマムな舞台設定と登場人物にも関わらずに作品に奥行を与えるのは、やはりその特異な、もっと言えば前衛的な作品構造からであろう。

 「道化の華」の前衛性はその作品の構造が担っている。<僕>という「語り手」(=「作者」)が物語を語りながら、それと同時にその物語の内容や構成に関する註釈を加えてゆくという構造になっている。これは、中村三春が言うように「小説創造と小説創造に関する陳述の同居という、メタフィクションの定義に完璧に一致する」[1]だろう。中村三春の「道化の華」論である「『道化の華』のメタフィクション構造」は、「道化の華」をメタフィクション構造の作品であるとして分析する記念碑的な論文である。ロマーン・ヤーコブソンの「コード」「コンテクスト」「コンタクト」「メタ・メッセージ」をメタフィクションの構造に適用して、メタフィクションの一般的な特性を三つ挙げている。

 

 

 (1)メタフィクションにおいては、本来メタ・コミュニケーションとして潜在するはずの、物語の状況設定そのものがメッセージの内部に含み込まれ、顕在化させられる(メタ・コミュニケーションの顕在化)。この結果、(2)メタフィクションではその読まれ方の規則が、あたかも通常のフィクション以上に厳密に指示されるかのように見える(自己状況設定の強化)。しかし結局、(3)そのメッセージ内容が現実に根拠を持たない虚構現象であるという事実をも、メタフィクションは明示してしまう(虚構性の自己暴露)。[2]

 

 

 この三つの特性を「道化の華」に適応して見せるとすれば、(1)(2)の「メタ・コミュニケーションの顕在化」と「自己状況設定の強化」は、「語り手」(=「作者」)である<僕>の「物語の内容や構成の註釈」がそれに当たるだろう。これをさらに細かく見てゆくと、「(1)筋や人物の内容についての語り手の補足や意見としての<メタ内容レヴェル>(コンテクスト)(2)小説の手法や言葉遣いへの註釈・批判としての<メタ言語レヴェル>(コード)(3)「君」という呼びかけを含む(対読者レヴェル)(コンタクト)」[3]として分解することができる。そして(3)の「虚構性の暴露」はこの「道化の華」が「これらのメタ・メッセージじたいが不断に自己解体し、自らをさらに注釈するいわば<メタ自己言及>」[4]によって、その「メタ・コミュニケーション」そのものの根拠を揺るがせ、「空中楼閣としてのフィクションの虚構性を暴露させる」[5]ことになる。

 中村の「道化の華」のメタ・フィクション読解は、松本和也が言うように「表現構造の分析が抽象的にすぎる難がある」し、「山崎正準が指摘するように、『道化の華』のすべてがメタフィクションという分析枠組みに収斂するわけではなく、その時死角となる《言葉の力学》にも配慮するべきだ」[6]としながらも、松本自身が論を進めるにあたって大筋の枠組み――「メタ内容レヴェル」(コンテクスト)「メタ言語レヴェル」(コード)「対読者レヴェル」(コンタクト)を利用している。しかし、松本が、中村のメタフィクション論よりも、より一歩踏み出しているとすれば、「メタ内容レヴェル」(コンテクスト)「メタ言語レヴェル」(コード)「対読者レヴェル」(コンタクト)に「読者」の役割を付け加えたことにより、「静的」であった中村の読解とは対照的に、「動的」な読解を可能にしているように思える。松本の論が、作品の内部/外部に広がる「昭和十年前後の《(現代)青年》という主題系」[7]を足掛かりにすることで、「作者」と「読者」の共犯関係によるテクスト生成のダイナミズムを捉えようとする。

 しかし、中村の論文も松本の論文も基本的に「道化の華」の構造の分析に徹しているがゆえに、内容の面にあまり踏み込んでいない印象を受ける。ある意味では、「道化の華」の困難さは、構造の前衛性ゆえに、構造の分析に終始して、内容の部分に踏み込むことが出来ないからではないかと思う。その理由の一つには、恐らく、この「道化の華」が昭和五年一一月に、バーの女給田辺あつみと鎌倉小動崎の心中未遂事件を図ったという伝記的な事実を題材にしていることが、この作品を太宰治その人に依った読解へと我々を誘惑するのも事実なのである。相馬正一が、筑摩版『太宰治全集』の月報「青松公園における思ひ出」の小館保のよう太宰治の近しい存在でも、「道化の華」に書かれていることが、「実録」であると認識されることによって、「それを自分の体験とミックスされた別の記憶を作り上げた」[8]のではないかと指摘する。つまり、ここで相馬正一が「信憑性が高い」とする「新聞記事や次兄の記憶」によって実証的に構成された現実と「中畑(慶吉)と小館の『道化の華』と自分の体験をミックスされた記憶」によって構成された「現実」に分裂していることが分かる。問題にしたいのは、このように分裂化する「現実」であり、現実が二重化して「現実」を産出してゆくプロセスそれ自体が「復讐」の別名なのではないかと思うのだ。なるほど、確かに中村が言うように「現実の事件の経緯を前提とした、実体験のコンテクストに照らしてこのテクストを読解する必要は全くない」[9] だろう。しかし、それにも関わらず、この現実を二重化してゆくシステムを稼働させるものが、暗示されるだけに留まる「自殺未遂」(=「心中事件」)なのではないかと思う。それはどういうことか。これは、現実を二重化して「現実」として分裂化してゆく方法としての反復に関わってくる。

 この「道化の華」には、多くの反復の運動を認めることが出来る。例えば、印象的な作品構造上の反復として、小菅がやってきたが、葉蔵と会わずに、飛騨と真野と一緒に食堂に出かけてから「語り手」である<僕>が「註釈」を付け加える。

 

 

 それから最初の書き出しに返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠嘆を、栄えある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとして、僕は心細くそれを抹消する気はない。あの一行を消すことは、僕のきょうまでの生活を消すことだ。

 

 

 このように安藤宏が言うところの「楽屋話」[10]が語られるわけではあるが、「語り手」(=「作者」)である<僕>の指示によって我々読者はこの作品の一行目「ここを過ぎて悲しみの市」まで反復されることになる。ちなみに、この言葉(「ここを過ぎて悲しみの市」)はダンテ『神曲』からの引用であり、実は作品の一行目から我々は「引用」という反復の運動に巻き込まれているのではないかと思うのだ。

 さて、冒頭の「ここを過ぎて悲しみの市」という言葉まで反復されることで我々は、「ここを過ぎて悲しみの市」の次の行から始められる僕(大庭葉蔵)の独白が、飛騨や小菅に向けての言葉であったと理解することが出来る。そもそも、一見するとこの冒頭の大庭葉蔵の独白は、「語り手」(=「作者」)である<僕>の語りとほとんど見分けがつかない。もちろん、そのすぐ後に、「僕はこの数行を読み返」すという反復によって「友はみな……」から始められる語りと、「夢より醒め……」から始められる語りとの間に差異を作りだす。つまり、この「夢より醒め……」という現実と、「友はみな……」から始まる作品内作品としての「現実」に分裂する。我々は、この分裂化する「現実」の諸相をメタフィクションとして呼ぶのだろう。そして、現実と「現実」が分裂してゆくのを、自己言及として何度もその差異を再-認識してゆくプロセスを反復させることになる。

 前にも述べた通りに、この作品において、「語り手」である<僕>がその時々に「小説」に「註釈」を加えてゆくのだが、主に「自己卑下」によってそれは「反復」されることになる。例えば、「パノラマ式の数駒を展開させるか」(148項)からの、「小説」の展開、そしてその失敗の自認(「僕は三流小説家ではないだろうか」)という展開からも、松本が言うように、「<企図の開示(註釈)→実作呈示(”小説”)→失敗の自認(註釈)>」[11]というプロセスを反復させることで作品が進行することが見て取れると思う。松本が言うようにこの否定の運動は「小説の書けない小説家」として「読者」に印象づけようとする操作であることも確かにそうではあるが、むしろ「心中未遂事件」という「語りえないもの」に位置づけられた「それ」(=現実)を語ろうとするが、「それ」に近づこうとすればするほど、「それ」(=現実)からズレ(=差異)を産み出してゆき、「現実」として分裂して行ってしまう。その分裂してゆく「現実」がフィードバックされることによって、その差異を埋めるために<僕>に饒舌的に「註釈」を語らせることになる。

 語りという作品の構造の面から見れば、そのような反復的な運動によって、作品が構成しているとすれば、では、内容の面における反復はどうなっているのだろうか。例えば、何度も反復的に立ち戻ってゆく大庭葉蔵の「心中未遂事件」の理由についての会話や、反復的に交わらせる青年たちの「笑い」、あるいは最後の場面にて反復される葉蔵と真野によって「心中未遂事件」の場面などであろう。このように、作品の内容の面でも、反復的な運動によって作品を構成しているように思われる。しかし、前にも述べた通りにその反復は同一的なものに回帰するというよりは、反復されるたびに差異を産み出してゆくことになるだろう。

 「心中未遂事件」の理由についての会話は、最初は、「思想、きみマルクシズムだよ」としながらも、再びその話題が反復したときには、「それもあるだろうが、それだけじゃないよ。つまり惚れていたのさ。いやな女と死ぬ筈がない」(156項)として、葉蔵自身の最後の反復によって、「心中未遂事件」の理由が女を好きだったかもしれないことや、左翼運動の挫折に言及しながらも、「もう彼の言葉は信じてはいけない」「ああ、言えばいうほどおのれが嘘つきで不正直な気がして来るこの大きな不幸!」という、割って入る<僕>の「註釈」によって、その理由すらも本当の理由ではないことが暴露される。このように「心中未遂事件」という現実は、「作者」としての<僕>がどんなに言葉を費やしてもその現実に到達することはできずに、その差異を意識せずにはいられない「現実」として分裂してゆくしかないのだ。

 そもそも、葉蔵が画家であることもこのような反復と差異の問題にかかわってくる。画家は、絵を描くとによって、対象をキャンパスの上で表象 re(再)-presentation(現前化)させることで可能にする。しかし、この表象representationという再現前化の運動は必然的に差異を巻き込むことになる。

 

 

 病室は雪の反射であかるかった。小菅はソフアに寢ころんで、雜誌を読んでいた。ときどき葉藏の画を、首すじのばして覗いた。(…)葉藏ほどの男が、汗みどろになって作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただ軽くそう思っている。その点、やはり葉藏を信頼しているのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅が葉藏のスケツチを盜み見しながらも、がっかりしている。木炭紙に畫かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。

 

 

 「海と島」が描かれているが、しかし、それは小菅をがっかりさせるような「ふつうの海と島」なのである。なるほど、これは、この作品に満ちている「作為性」や「虚構性」を表しているかもしれない。しかし、それよりも、対象を「木炭紙」の上で描くに当たって、その「対象」に接近しようとすると「画いているうちに、きざな気がして」きてその作品を破棄してしまうように、この「きざな気がして」という意識、現実と「現実」(作品)との距離を認識したときにその差異、その距離の隔たりを「きざ」という言葉として吐露されたのではないか。

 では、この作品で「きざ」という言葉が否定的なものとして存在しているのだろうか。いや、そうではない。例えば、「パノラマ式の数齣」の葉蔵の「すこし気取ったポオズ」や「ポンチ画」、そもそもこの小説が「ポンチ」であるという<僕>の「註釈」、「このようなくだらない小説」という言葉、「市場の芸術家」という<僕>自身による自己規定など。そのように、自己を卑下しながらも、それが紛い物/偽物であると認識しながらも、積極的に、そのような紛い物/偽物にコミットしてゆこうとする。もしかしたら、その戦略が、「道化の華」の別名なのではないか。そして、三度反復される「美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る」という言葉によって、この作品がすべての紛い物/偽物(「現実」)に「承認を与えよう」とするのである。

 最後の「断崖」という「心中未遂事件」を反復させるような状況において、「心中未遂事件」の相手である園子という人物を反復する相手としての真野が配置される。しかし、前に述べた通り、その反復は同一のものに再帰するのではなくて、差異を持って「現実」を生み出す。この「心中未遂事件」という物語の中心として駆動する「語りえぬもの」を反復することによって、現実と「現実」という境界線そのものを破棄して、「それだけのことである」という全ての差異の肯定として「復讐」は達成されるのである。

 

[1] 中村三春,1994,「『道化の華』 のメタフィクション構造」『フィクションの機構』,p.215,ひつじ書房

[2] 中村,同上,pp.218-219

[3] 中村,同上,p.223

[4] 中村,同上,p.224

[5] 中村,同上,p.224

[6] 松本和也,2009,「黙約と真実―『道化の華』」『昭和十年前後の太宰治〈青年〉・メディア・テクスト』,p.199,ひつじ書房

[7] 松本,同上,p.213

[8] 相馬正一,1991,『若き日の太宰治』,津軽書房,p.128

[9] 中村,同上,p.212

[10] 安藤宏,2009,「周回遅れのトップランナー―――文芸復興期」『展望 太宰治』,ぎょうせい,p.43

[11] 松本,同上,p.205