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『人間失格』の三枚の写真と、幽霊

 

人間失格

人間失格

 

 

 

 

 

ここに三枚の写真がある。この三枚の写真について、一つ、二つ考えてみようと思う。それ以上でも、それ以下でもない、三枚の写真について語ること、それによってどこまで遠く離れることが出来るのか、ただそれだけを試してみたいと思う。「はしがき」において、「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」という書き出しによって、小説は始まることになるが、我々は「その男」が誰かを知らない。ここで述べられる「その男」が誰であるのかを我々が推測するのはこの数ページあとの「第一の手記」を読み始めてからであろう。「恥の多い生涯を送ってきました」と書きはじめるその男、あるいは「第二の手記」において「海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に……」から書きはじめるその男、あるいは「第三の手記」において「竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました」から書きはじめるその男。「第一の手記」と一枚目の写真、「第二の手記」と二枚目の写真、「第三の手記」と三枚目の写真がそれぞれ対応するかのように見える。だが、それは果たして自明のものなのだろうか。つまり、我々が、「第一の手記」を書いている人物と「不思議な表情の子供」、「第二の手記」を書いている人物と「不思議な美貌の青年」、「第三の手記」を書いている人物と「不思議な男」が対応していると錯覚しているだけではないか。そもそもこの写真と、そして手記はどこから来たのか。「あとがき」には、このように書かれている。その小説の語り手である〈私〉が「その男」が「まだ生きているのか」どうかを京橋のスタンド・バアのマダムに聞くとマダムはこのように答える。

 

 

「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです」(太宰治人間失格』新潮社,p.154)

 

 

「差出人は葉ちゃんにきまっている」としながらも、「その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかった」のであり、そもそも、三枚の写真だけでなく、その三つの手記も、葉ちゃん(=葉蔵)が書いた保証が何処にもないのだ。もっと意地悪く言えば、「はしがき」と「あとがき」が作品に組み込まれており、この大庭葉蔵という人物がそもそもフィクショナルな存在なのではないか。しかし、興味深いのは、このマダムが「差出人は葉ちゃんにきまっている」と信じ込んでしまうように、我々がその小説を太宰治(津島修治)という人間の私小説である、と信じ込んでしまうのだ。それは、『道化の華』における心中事件を昭和五年一一月に、鎌倉小動崎の心中未遂事件の事実を元に書いていると短絡することと同じことではないか。大庭葉蔵という同姓同名の主人公を持つこの小説においても同じような疑似餌が作者によって周到に用意され、我々がそこに誘い込まれるのを待っているのだとすれば、では、どのようにその誘惑に抗うべきなのだろうか。そのためにも私はこの三枚の写真についてだけを語りたい。一枚目は、「その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真」であり、「(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真」であるいるの。〈私〉は、写真のなかに映る場所(「庭園の池のほとり」)そして彼を取り巻く「大勢の女のひと」に視線を向けながら、「その子供」に視線は移ってゆく。まずは、「その子供」の服装(「荒い縞の袴」)から視線は上昇してゆき、「その子供」の顔に〈私〉の視線は立ち止ることになる。「首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真」であると〈私〉は言う。しかし、「鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)」が、「その子供」を見て「可愛い坊ちゃんですね」という「通俗の『可愛らしさ』」も「その子供の笑顔に無いわけではない」のだ。しかし、「美醜に就いての訓練を経て来たひと」(それは、ここでの語り手である〈私〉も含まれているのだろう)にとってはひとめ見て「なんて、いやな子供だ」と「毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない」のだ。しかし、「その子供」の笑顔の醜悪さを〈私〉が書きたてれば、書きたてるほど(「イヤな薄気味悪いもの」「猿だ。猿の笑顔だ」「顔に醜い皺しわを寄せているだけ」「けがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情」)逆に〈私〉の視線はますます「その子供」の顔に文字通り釘付けになってゆく。むしろ、「その子供」の醜さを語ろうと思えば、思うほどその記述は、醜さの「それ」としか呼べないものを掴み損なって「こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった」と書かざるを得なくなる。二枚目は、「学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしない」が一枚目の「その子供」が「びっくりするくらいひどく変貌」して「おそろしく美貌の学生」が写真には写っている。〈私〉は服装(「学生服」で「胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ」ている)から、「美貌の学生」が「籐椅子とういすに腰かけて足を組」んでいることに視線を向けながらも、やはりその顔に視線は立ち止る。「美貌の学生」の笑顔を、「その子供」の笑顔と比べて「かなり巧みな微笑」であるとしながらも、「人間の笑い」と、どこか違う違和感を持つ。「血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ」といったものの充足感が少しもないような「鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている」のである。ここでも、〈私〉はその違和感の正体を掴もうと思って、語ろうと、語ろうと言葉を連ねる(「一から十まで造り物の感じ」「キザと言っても足りない」「軽薄と言っても足りない」「ニヤケと言っても足りない」「おしゃれと言っても、もちろん足りない」)のだが、それに届くことはない。ここで、繰り返される「足りない」という言葉が対象に近づこうと思えば思うほど、逆にその対象との距離は離れざるを得ないもどかしさが吐露されるのであるが、言語化不可能なその違和感に〈私〉は思わず「どこか怪談じみた気味悪いもの」としてその写真に写る「美貌の学生」の印象を述べる。そして、最後の三枚目の写真において、「最も奇怪なものである」と〈私〉は感じることになる。「まるでもう、としの頃がわからない」頭にいくぶん「白髪」の男。前の二枚の写真と同じように、その写真が写された場所(「ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)」)に視線を泳がせながら、「小さい火鉢に両手をかざし」ているその男の顔にやはり視線は固定されることになる。しかし、前の二枚の写真と違って、「こんどは笑っていない」というよりも、「どんな表情も無い」のだ。「自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする」その写真に対して〈私〉は、前の二枚の写真のように語ろう、語ろうと思ってそれを掴み損なうというよりも、その写真に対して初めから語ることは不可能であることを意識しているように思える(「額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い」)しかし、自身も語ることが不可能であるようなのっぺりした表面をもつそれ(「眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない」「画にならない顔」「漫画にも何もならない顔」「眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない」)にも関わらずに、あるいはそれゆえいっそう「不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる」のは何故なのだろうか。そして、最終的に、その写真の印象は、「どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせる」ものであると〈私〉は書きつける。〈私〉が三枚の写真を見てそこに写る「その子供」「美貌の学生(青年)」「男」の顔にそれぞれ感じる「不思議」な感じは何に由来するのであろうか。ここで、ロラン・バルトの『明るい部屋』で使われる「ストゥディウム」と「プンクトゥム」によって〈私〉が感じる違和感の正体を考えてみたい。「ストゥディウム」(stadium)は「(…)《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)」[1]であると、ロラン・バルトは述べる。そして、「プンクトゥム」(punctum)は「ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(私の至高の意識を写真の意識をストゥディウムの場に充当するわけではない)。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。(…)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもあり――しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然」[2]なのである。「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の違いをゆっくりと詳しく見てゆこう。「ストゥディウム」は、「一般的な関心や文化的興味」を惹き起こすもので、それは五つの機能を持っている。

(1)「情報を与える」という機能。

(2)「表象する・描く」という機能。

(3)「驚かす」という機能。

(4)「意味する」という機能。

(5)「欲する気持ちを抱かせる」という機能。[3]

ひとつひとつ見てゆくと(1)の「情報を与える」はそのまま情報伝達として写真の機能である。(2)の「表象する・描く」というのも、そのまま写真が対象を表象する写真の機能である。(3)の「驚かす」という機能は、さらに細分すると①稀少性の高い被写体の撮影②決定的瞬間の撮影③技術的困難なものの撮影④美術的効果を狙った撮影技術⑤思わぬ掘り出し物の撮影など[4]の機能を持っている。そして(4)の「意味する」という機能は、例えば、広告写真を例にとってみれば、商品を売るために、その写真に商品の「意味」を付与することになるだろう。あるいは、記念写真などにも、それが撮られることによって何らかの意味がそこに込められることになる。(5)の「欲する気持ちを抱かせる」のは、写真の願望や欲望を喚起させる機能である。これらが「一般的関心や文化的興味」を惹き起こすものとしての「ストゥディウム」であるが、反対に「プンクトゥム」はそれを破壊して私に突き刺さって来るものである。「ストゥディウム」が「全体」であるならば、「プンクトゥム」は「細部」であり、不意打ちのようにやって来るものである。例えば、一枚目の写真を例にとってみるならば、「ストゥディウム」は「大勢の女のひと」や「庭園の池のほとり」あるいは「その子供」が着ている「荒い縞の袴」などの機能(1)(2)(4)に関わるものに留まるが、それを切り裂くかのように「その子供」の笑顔(=「プンクトゥム」)が写真のなかで浮き上がってゆくことになる。一見すると、「ストゥディウム」は、言語化可能(一枚目の例で言うと、「大勢の女の人」「庭園の池のほとり」「荒い縞の袴」)であり、「プンクトゥム」は、言語化不可能なもののように思える。しかし、本当にそうなのであろうか。

 

 

 

ただし、プンクトゥムの言語化はまったく不可能だとまでは言えまい。バルトは、プンクトゥムは「名指すこと(nommre)ができない」と言う。名指すこと、すなわちそれにひとつの名を与え、それをひとつの(あるいはひとまとまりの)言葉で指し示すこと、それを定義的・概念的に、つまり安定した意味を有するものとして固定的に言語化すること、それは不可能だと言う。しかし、このことは、言語化することがいかなる仕方でもまったく不可能だということを意味しているのではない。なぜなら言葉は、言葉で表現できる限界の一歩先を表現してしまうような、動的なものなのである。プンクトゥムは、名指すことができないとしても、物語ることならできるのかもしれない。[5]

 

 

 

この小説が三枚の写真を語ることから始まるのは偶然ではないのではないだろうか。つまり、三つの手記が、三枚の写真を呼び寄せるというよりは、三枚の写真が、三つの手記を、もっと言えば物語を要請するのだ。それは、「名指すことができない」が物語ることは可能な「プンクトゥム」を物語るために、である。しかし、これではその「不思議」なものになにひとつ届いていないだろう。では、話しを少し変えてこの三枚の写真に接近してみよう。例えば、写真と「幽霊」の関係を考えてみればどうだろうか。そもそも、写真を撮られる瞬間、そのたびごとにただ一つの「死」を与える行為に他ならない。

 

 

写真の撮影の瞬間にわれわれは客体(モノ、もっとあからさまに書けば死体)と化す。誰でも不意にシャッターを切られた瞬間に、ちょうど銃で撃たれた時のようなショックを感じて、身体を硬直させた経験があるだろう。多かれ少なかれ、写真は自らの意志で自由に動きまわっていた主体を不動の石像として凍りつかせるあのメデューサの眼のような力を備えている。どんな写真でも「小さな死」の瞬間の身体の緊張と硬直の名残りをとどめている。だからこそ一瞬の沈黙とともに撮影が終わった時に、人々はあんなにも解放されたような安らぎの表情を浮かべるのだろう。ほっとして笑いさざめく彼らは、たった今黄泉の国から帰還したところなのだ。[6]

 

 

そのように、写真というものは、きわめて死に近い行為であろう。あるいは、写真が撮られるときに「私はしきりに《ポーズをとり》、またたくまに自分のもう一つの肉体をつくりあげ、前もって自分を映像に変身させる」[7]のであれば、むしろ写真のうちに新しい肉体を生み出すためには一度死を通過させなければならないのではないか。しかし、その移行の過程で、つまり、死んでもない、あるいはかといって生きてもいない状態、死にながら生きており、生きながら死んでいる状態において、「幽霊」になることに他ならないのではないか。「あまりにも長い間、写真は自らの誕生にまつわる亡霊、いわば死の亡霊に憑つかれてきた。写真は常に過去のある瞬間、すなわち、その後に我々が現在において眺めるような瞬間を捉えるといわれる。したがって写真を見るということは、過去と現在を往還する運動を経験するということであり、それはつまり時の過ぎ去り/死(passing)一般を目撃するということだ。結果として写真はやがて訪れる我々自身の置き去り/死に対して、気持ちを向かわせずにはいられない。『それはかつてあった』と『これはやがてなるだろう』を同時に突きつけながら、写真は未来の知り得ない時間に訪れる我々自身の死を予告する」[8]写真の歴史において、その最初期の記憶は、「写真に写ると魂が抜かれる」 といったような俗信も囁かれていたほど、不思議な、神秘的なものとして人々の前に姿を現していた。実際に、19世紀のアメリカにおける「ハイズヴィル事件」に端を発する近代スピリチュアリズムにおいて死者の霊との交信における顕現現象を記録する目的で写真は使用されていた。 それから、1861年にアメリカの写真家であるウィリアム・H・マムラーが、史上初の「心霊写真」を撮影したと知られている。 1826年に、現在の写真の原型とも言える銀板写真のダゲレオタイプ・カメラが発明された 、と考えてみれば、写真はその最初期から、生者と死者を繋げる「霊媒」として機能していた、とも言える……(blah blah blah)

 

[1]ロラン・バルト,1997,『明るい部屋―写真についての覚書』,みすず書房,p.38

[2]バルト,同上,pp.38-39

[3]荒金直人,2009,『写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想』,慶應義塾大学出版会,pp.16-19

[4]荒金,同上,pp.16-17

[5]荒金,同上,pp.24-25

[6]飯沢耕太郎,1995,『写真の力』,白水社,p.28

[7]バルト,同上,p.18

[8]ジェフリー バッチェン,2010,『時の宙づりー生・写真・死』,NOHARA,p.28