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なし崩しの果てに―――松本圭二小論

 

 

 

詩は、カミソリで身体中を切り裂くような行為だもんね。違うかね。違うならじゃあおまえらはどうやって詩を書いているんだ。俺は血だらけの詩を浴びるほど読んで来たよ。早稲田通りの「あらえびす」に籠って。

 

松本圭二「ダブル・コックローチ」)

 

 

 

 松本圭二は、探している。「ポエジーは死んだ。/エレジーは殺された。/残っているのは、バンジーだけだ」という苦い認識を受け入れながらも彼は探し続けることをやめることはない。では、何を、探し続けているのだろうか。例えば、それは、「海」と名づけられるものではないか。『詩人調査』は、新潮2010年03月号に掲載された作品であるが、アル中のタクシードライバー、園部航の元にヒラリー・クリントンに似たエイリアン=「宇宙公務員」が現れる。エイリアンの目的は「詩人サンプル」として園部が適正であるか調べるためだった。物語の最後には、園部が、「預言者、ギャンブラー、テロ組織の首謀者といった詩人条件をおおむね満たしている」のにも関わらずに、「未だ詩人覚醒までには至っていない」のは、「いくつかの失われた記憶」を取り戻す必要があるのだと、「宇宙公務員」は報告する。そして、「宇宙公務員」が参考までにと本部に添付して送る「園部が失った記憶の一部」の音声資料はこのような子供との会話であった。

 

 

「海は?」

「海?」

「海ならただでしょ?」

「だっておまえ泳げねえだろ?」

「見るだけ?」

「うん」

「じゃあ海でも見に行くか」

 

松本圭二『詩人調査』)

 

 

 

 園部は、「新宿レコンキスタ作戦」のための筑摩書房版世界文学全集四〇巻に文字通り「爆弾」を詰め込んだ五冊の「詩集」=「チェーホフ爆弾」を作った後に、第二「詩集」として「海を見に行け」を生み出すことになるが、ここで、付け加えておくならば前作の『あるゴダール伝』の登場人物の一人であり、「ゴダール」のあだ名を持つ詩人、権田類も「海を見に行け」という同名の「詩集」を出している。しかし、その「海」は、「近くにあるはずなのに、うんと遠い気が」するものとして認識されるものではないか。例えば、『あるゴダール伝』において、権田と「僕」(=「松本圭二」)が、その「絶望的な共同生活」を終わらせるために「海」を見に行くのだが、「廃材のような海の家。犬を連れたおばさんと、凧上げに失敗し続けているファミリー。お父さんが悲しい。やる気のないサーファー連中が遠くで焚火をして」いるような「淋しそうだった。/淋しくて寒い」光景(=「おれの海は、こんな海じゃねえ……」)として、あるいは、『半漁』であれば三重県四日市の「コンビナートに囲まれた陰惨な海」、そしてその果てには、『R/F 5つの断片』において車で疾走することになるアラビア半島の砂漠の「海」があるのではないか。そして、見つけたと思ったらすぐに失望に変わってしまうその「海」は、永遠に届くことはないというポジションをキープしているがゆえにいっそう詩人を突き動かすもの、すなわち「ポエジー」の隠喩として存在している。もちろん、「海」=「ポエジー」という図式は、あまりにも安易に過ぎるのかもしれない。しかし、ここで問題にしたいのは、「海」=「ポエジー」という図式そのものではなくて、「海」=「ポエジー」が果たして届かないものとして、彼の目の前にあったのだろうか。いや、むしろ、こういえばよいだろう。彼は、「海」に届いてしまったのではなかったか。

 

 

そうして僕らは 鮮やかなアクリル質の皮膜のなかで 日々の没落を温めていた

その腐敗物は

恋人の夢の彼方で匂っている

熟れ落ちた柘榴なのだろう

僕は シオカラトンボの飛行に誘われるまま ぬるい湿林に嵌まってしまう

切り取られた空のゆるまりのなかで なおもゆるまってゆく

柘榴

親密な体臭に絆された溺愛の白雲がひかれてゆく ぬるく ほとばしる

 

絨毯爆撃がしたい

 

ロング・リリイフ

戦意の喪失を引き継ぐために

僕は無傷の卵巣を培養している

 

                (松本圭二「ロング・リリイフ」)

 

 

 

 第一詩集『ロング・リリイフ』に収録されている詩は、「現代詩」らしい「現代詩」―――……言い直そう、「戦後詩」らしい「戦後詩」ではないだろうか。全編が流麗で、瑞々しい感性によって描かれている。松本は『ロング・リリイフ』を出版することは、「大学を中退するときに私は一度忘れたい」という「現代詩」への決別であり、文字通り「青春」=「詩」への別れになるはずだった。私たちは、アルチュール・ランボーが19歳で「詩」に「最終通告」を叩きつけて、「武器商人」への転回=転向を知っている。「詩」というものが「青春」の限られた時期のものであるという共通認識は多かれ少なかれ持っているのではないか。「現代詩」に限って言えば、谷川雁が「瞬間の王は死んだ」と言って詩を放棄して「東京に行った」ように、帷子耀が20歳そこそこで詩に別れを告げて、パチンコ屋の社長になることを、誰が責められるだろうか。むしろ、それに気づかない、あるいは気づかないふりをすることこそが不誠実(=「年寄りの詩なんて汚ねえだけだ」)なのではないか。

 しかし、それでも「詩人」であることはどういった意味を持つのだろうか。「『詩人』なんてな、今では差別用語じゃないですか。わたしなんて恥ずかしくて、妻にだってやすやすとは口にできませんよ」と、彼は『詩人調査』のアル中のタクシードライバー兼「詩人」に語らせることになる。あるいは、「一九六八年革命と現代詩」の共同討議において、映画『レフトアローン』の冒頭のシーンを「絓さんや松田政男が壇上にあがって、『今日は朝まで騒いでよろしい』みたいなことを言っている。そういうのを見ていても、『何でおまえらに言われなくてはいけないんだ』と僕なんかは思ってしまう。おっさんたちに煽られて、馬鹿騒ぎをしている学生や学生以外の人たちを見ていると、僕はほとんど絶望的な気分になる」[1]というその嫌悪感は、「革命ごっこ」に「詩を書いてしまうことの羞恥心」を持たないような自称「詩人」たちと同じものを見たからではないのか。「今でも自分の詩が大衆化されることを夢見ている詩人が少なからずいて、売れてナンボとうそぶきながらダレた詩を書いているけれど、若いやつに多くて気が滅入るけれど、気の毒としか思えない。ポップ詩だのビジュアル詩だのと言って、被害者ヅラした甘ったれの詩人」[2]そのような後退に対して真っ向から対立するものが「現代詩人」なのではないのかと、松本圭二アジテーションする。しかし、彼は、小詩集「ミミズノウタ」を最後に「詩」から「小説」へと転回=転向したように見える。そして、「詩」への復帰作第一号である「ダブル・コックローチ」において「書かねえよ。詩は」と吐き捨てる。 

 しかし、この「詩」から「小説」へのなし崩しの転回=転向をどこで見極めればよいのか。一般的にその転回=転向の瞬間を「散文」と「詩」の境界を曖昧化させることによって逆説的に「現代詩」足り得ようとした『アストロノート』から考えるべきなのかもしれない。しかし、『ロング・リリイフ』において「精神のピーク」=「法悦の時」、谷川雁の言うところの「瞬間の王」に届いてしまったこと、そして届いてしまったからには、なし崩し的な転回=転向してゆくしかなかったのではないか。サミュエル・ベケットには「想像力は死んだ、想像せよ」という題名の短編があるが、松本圭二に即して言うならば「詩は死んだ、詩作せよ」なのではなかったのか。

 

 

それはビスタサイズをした夢だ

ばかやろう

 

           (松本圭二『詩集工都』)

 

 

『詩集工都』の「感覚を自然に流露した言葉が『ロング・リリイフ』で、その言葉が消尽した状態が『詩集工都』」(鎌田哲哉)であるのは、「瞬間の王は死んだ」それ故に言葉がその場で「消尽」してゆくしかないその絶望的な足掻きそのものである。現代において唯一可能な「詩」は「テロ」以外に存在しないのだと、松本は言う(「誰にも捧げない詩」)それ以外の「海」=「ポエジー」は、砂漠化されてゆくしかない。*1しかし、それでも、あるいはなおいっそう『ロング・リリイフ』に立ち戻ってゆくのではないか。「とにかく僕は『ロング・リリイフ』までもう一度帰って、そこからやり直すことにしました」と自身のブログにおいて『あるゴダール伝』の告知ページで書いている。『アマ―タイム』においては、一転する「饒舌」と眩暈のする「速度」を、『アストロノート』では、「ことば、ことば、ことば」そのままの「散文」と「詩」の境界の破壊が行われるだろう。しかし、「瞬間の王は死んだ」という状況を引き受けるゆえに、「本物」ではなくて「偽物」を、「詩」ではなく「散文」を、「詩人」ではなくて「コックローチ」であらねばならないのではないか。 

「散文的崩壊」や、「ポエジーの最終形態は徹底的な言語破壊」というなし崩しの果てを、松本圭二は探している。

 

 

 

参考文献

 

 

松本圭二,2000,『アマ―タイム』,思潮社

松本圭二,2006,『アストロノート』,「重力」編集会議

・2002,『重力〈01〉』,「重力」編集会議

・2003,『重力〈02〉』,「重力」編集会議

・水と緑と詩のまち前橋文学館,『松本圭二 : let's get lost : 私は何かの間違いで詩集を造ったりはしない : 前橋文学館特別企画展第14回萩原朔太郎賞受賞者展覧会』

・下村康臣、武田崇元松本圭二中島一夫手塚敦史、宿久理花子、木藤亮太、大澤南,2017,『子午線──原理・形態・批評 Vol.5』,書肆子午線

・2009,『新潮 2009年 07月号』,新潮社

・2010,『新潮 2010年 03月号』,新潮社

・2008,『すばる 2008年 04月号』,集英社

・2011,『すばる 2011年 12月号』、集英社

 

[1]稲川方人、絓秀美、松本圭二井上紀州鎌田哲哉,2003,「一九六八年革命と現代詩」『重力02』,「重力」編集会議,p.44

[2]松本圭二,2002,「ミスター・フリーダム」『重力01』,重力」編集会議,p.59

[3]http://soralis.yu.to/tibikuro65.htm(2017年2月6日取得)

*1:80年代、荒川洋治が広告の言葉に「詩」を発見したように、むしろ、我々の世界は「ポエム」化した世界なのではないか。我々の時代ほど、「ポエム」に飢えた時代はないのではないか。数秒ごとに吐き出される「つぶやき」は、まさに「ポエム」の時代にふさわしいものである。「詩」が消え去ることによって、すべてが「ポエム」によって埋め尽くされたのではなかったか。